日本に唯一残っていたDRAM(半導体メモリ)メーカー、エルピーダメモリが27日、会社更生法の適用を申請した。負債総額は4480億円と、製造業の経営破綻としては過去最大だが、3年前に公的資金を受けて以来、慢性的に危機説が流れていたので、業界にそれほど驚きはない。むしろ「よくここまで持ったものだ」という声が多い。日本のDRAMは1990年代からずっと負け続けてきたからだ。
80年代は日本半導体の黄金時代
DRAMは、コンピュータの記憶装置に大量に使われる半導体である。CPU(中央演算装置)などのプロセッサが固有の回路を持つのに対して、DRAMは縦横の格子で情報を記録する単純な構造なので、製品差別化がむずかしい。回路の幅をいかに微細化して大量の情報を記録するかが勝負になり、同じ性能だと価格競争になりやすい。
かつてDRAMは日本メーカーの独擅場で、世界シェアの80%を日本が占めたこともあった。シリコンバレーには、その名の通りシリコンを使った半導体メーカーが集まっていたのだが、80年ごろから日本の電機メーカーが低価格のDRAMでアメリカの半導体メーカーを駆逐し、「日米半導体摩擦」が出現した。
このころアメリカの半導体メーカーは「日本の電機メーカーがダンピング輸出を行っている」と政府に訴え、86年に日米半導体協定が結ばれた。91年には、日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上に引き上げる数値目標が付け加えられたが、このころが日本の半導体産業のピークだった。
その後、日本から技術移転を受けた韓国のサムスン電子などが低価格で日本の半導体のコピー品を作るようになり、台湾メーカーは回路設計を行わないで製造だけを請け負って低価格で半導体を製造するようになった。
産業構造の転換についていけなかった「総合電機メーカー」
この背景には、半導体技術の急速な変化がある。
日本がアメリカを抜いた80年代初めの16キロビットDRAMのころは、プロセスの大部分は手作業だった。「半導体農業」と言われた労働集約的な作業では、日本人のきめ細かいチームワークで歩留まりが高まったが、80年代末の1メガビットDRAM以降は製造が自動化され、半導体は無人の工場で大量生産できるようになった。