外資系IT企業のほとんどは「英語圏」で誕生し、やがて英語圏でマーケットが確立すると、「非英語圏」に進出してくる。

 私が会社を設立した1990年代前半は、多くの外資系IT企業が日本へ進出し、ラッシュとも呼べる時期であった。海外で成功したハードウエア会社やソフトウエア会社などが、こぞって日本の市場に目をつけたのである。

 だが、日本には、NECや富士通、日立製作所、東芝などのハードメーカーや、NTTデータ、野村総研、CSKなど大手のソフトウエアベンダーが、企業のみならず官公庁や公的機関に深く入り込んでいた。外資系企業がその状況を覆すのは生半可なことではなかった。

 そこで、外資系IT企業の日本トップが集まり、「外資系情報産業研究会(FIIF)」という組織をつくった(設立は91年)。日本オラクルの佐野力氏、日本ヒューレット・パッカードの高柳肇氏、日本サン・マイクロシステムズ(現サン・マイクロシステムズ)の天羽浩平氏、デルコンピュータ(現デル)の吹野博志氏、日本アリバの渡辺邦昭氏といったそうそうたる経営者たちが名前を連ねていた。

 FIIFでは、日本企業が押さえていた国内マーケットを、いかに開拓するかという研究会が重ねられた。FIIFが考えたのは、「米国商工会議所」を巻き込んで貿易摩擦問題と連動させることであった。

 つまり、日本車の輸入を米国に緩和してもらう条件として、外資系IT企業製品を日本の官公庁へ導入してもらおうという取引である。当時、この取引はマスコミに大きく取り上げられた。

 私は日本企業の社長であったが、かつて外資系関連企業にいたことや、推薦者(当時のスターリングソフトウエアの石垣清親社長)の勧めなどにより、95年にFIIFのメンバーとなった(現在は副会長を務めている)。

 当時はメンバーの中で私が一番若かったということもあり、外資系企業の「重鎮」たちから随分と可愛がってもらった。いろいろな面白い話も随分と聞かせてもらった。FIIFは間違いなく日本のITを大いに進化させたと思う。