2009年8月の総選挙において、普天間基地の県外・国外移設を主張し、マニフェストに計画の見直しを掲げた民主党が大躍進して政権交代が実現した。この時を境に、普天間基地移設問題は迷走を続けることとなった。
政府は今年5月末までに移設先を決定するとしているが、果たしてそのようにことが運ぶのだろうか。
普天間基地の辺野古沖移設は、「米兵の少女暴行事件に端を発した県民感情及び住民の安全確保」と、「我が国の安全保障及び極東の安全確保」とのせめぎ合いの中で、日米政府が長い時間をかけ、苦心の末に出した結論なのである。
本稿は、普天間基地移設問題の経緯やその概要を振り返り、問題の論点を整理しようとするものである。
普天間基地移設問題の経緯
(1)SACOの設置及び同最終報告から「基本計画」の決定~~平成7(1995)年11月から平成14(2002)年7月まで
ア 平成7(1995)年9月に惹起した沖縄米兵による少女暴行事件により、沖縄県民の反基地感情はかつてなく高まり、これを憂慮した日米両政府は、平成7年11月「沖縄に関する特別行動委員会(SACO=Special Action Committee On Okinawa)」を設置し、その後1年間をかけて集中的な検討を行った。
イ 平成8(1996)年4月には当時の橋本龍太郎首相とウォルター・モンデール米大使が会談し、5~7年以内の普天間飛行場の全面返還を表明した。
ウ 平成8(1996)年9月、当時の橋本首相が、普天間飛行場代替施設として「撤去可能な海上施設」案を表明した。
エ 平成8(1996)年12月に発出されたSACOの最終報告においては、「普天間飛行場については、5~7年の間に、十分な代替施設が完成した後、全面返還することで合意」された。同最終報告においては、海上施設を沖縄本島の東海岸に建設することとされた。
オ 地元の動向と受け入れ表明を受けての政府方針の決定等
地元名護市の受け入れに関する市民投票及び市長選挙の結果並びに知事選挙においても稲嶺恵一氏が初当選したこともあって、橋本・モンデール会談から6年余り、初当選した岸本建男・名護市長の受け入れ表明もあって、「キャンプ・シュワブ水域内名護市周辺辺野古沿岸域」に建設することとした政府方針が閣議決定された。
平成14(2002)年7月には、政府の「普天間飛行場代替施設の基本計画」が策定されるに至った。