日本という場所に暮らす人にとって、生まれ育った場所としての「故郷」とはどのような意味を持つのだろうか。1950~60年代、地方に生きる多くの人たちが、仕事を求めて故郷を離れた。地方から都市への人口の流れはとどまるところを知らず、2010年の東京都の人口は1300万人を超えた。

畑井一馬さん。40年近い出稼ぎ暮らしで、全国の建設現場を渡り歩いた

 果たして、故郷を離れた人たちが、置き去りにしてきた故郷を振り返る時が来るのだろうか。あるいは、そのまま都市部にとどまり続けるのだろうか。

 島根県の中南部、広島県との県境に位置する小さな町「飯南町」に、1人の男性が暮らす。男性の名前は畑井一馬さん(83)。「お国のため」に、あるいは家族のために、人生のほとんどを故郷とは違う場所で過ごした。

 東京オリンピックの前年、家族を養うために東京で出稼ぎを始め、その後は全国の橋梁建設現場を渡り歩き、40年近い歳月を日本の経済成長の最前線で生きた。彼が最後に選んだ場所は、自分が生まれ、わずかばかりの少年時代を過ごした故郷、飯南町だった。

 「何にもない場所ですよ、ふふ」と笑う畑井さん。彼をこの「何もない」場所に呼び戻したものは、いったい何だったのか。「故郷」が持つ力とは。

不便な故郷

島根県飯石郡飯南町井戸谷上

 谷間の田んぼには収穫を間近に控えた稲穂が実り、その周辺には農業用のビニールハウスが点在する。

 両側の斜面には競うように木々が繁り、濃密な緑の匂いが漂う。耳には小川のせせらぎと蝉の鳴き声。

 8月の日差しが肌を刺すが、谷を吹き抜ける風が少しだけその肌を冷やしてくれる。畑井さんが暮らす故郷の日常風景だ。

 中国山地の山あいに位置する飯南町。人口約5500人のうち約4割を65歳以上の高齢者が占め、県内でも高齢化が顕著な地域の1つだ。畑井さんが暮らす井戸谷上(いどだにかみ)集落はその最奥部にある。

 地域の診療所の診察は週に1度だけ。町の中心部のスーパーや病院に行くにも町営バスでは便数が少なく、地域の自治会が運営する予約制の送迎車に頼る暮らしだ。

 「不便といえば不便な場所ですがね。なぜ戻ってきたか・・・」。畑井さんは苦笑し、右手で頭を撫でながら思案する。