幕末の権力者・井伊直弼の若き日の切ない恋から物語は始まる。井伊家の十四男として生まれた直弼には、もともと家督相続の目はなく、江戸に出て就職活動ならぬ、養子の口探しに精を出していた。その時に、たまたま見かけた南津和野藩主の美しき側室・美蝶に一瞬で恋してしまう。しかし、ニート青年の横恋慕などかなうはずもなく、養子の口も見つからぬまま、失意のうちに国元・彦根に戻され、300俵の捨扶持を貰い、引き籠り生活を強いられることになった。
ところが、兄たちが早世したために、直弼は35歳になって彦根藩主の座に就く。権力を手に入れたことで、若き頃の鬱屈した思いが一挙に爆発。実らなかった恋を取り戻すべく、美蝶の娘である美雪姫を51人の藩士と共に陸の孤島のような場所に幽閉し、側室になることを迫る。
そして、そこから、美雪姫と藩士たちの「大脱走」劇が始まる!
井伊直弼のプロフィールは史実の通りだが、美雪姫の幽閉とその後の大脱走は完全なるフィクション。しかし、ばかばかしいと思うなかれ。この物語、スティーブ・マックイーン主演の映画「大脱走」を下敷きにしており、藩士たちと姫の知恵を絞った脱走劇は、まるで映画を見ているようなハラハラドキドキの手に汗を握る展開。
徹底したヒール役の井伊直弼とその懐刀の長野主膳、聡明な美雪姫、冷静で知的な南津和野藩奉行の桜庭敬吾――と愛すべきキャラクターがたくさん登場するのも、また、楽しい。
12月5日付当コラムで紹介した『神無き月十番目の夜』が胸を締めつけられるような、辛い史実に基づいた歴史小説だったのに対して、『安政五年の大脱走』は、史実に基づかない、胸のすくような痛快・ロマンチック・歴史活劇なのだ。映画館に行かずにB級映画気分を満喫できる。
私が最初に読んだ五十嵐貴久作品は『交渉人』(幻冬舎文庫)だった。50人近い人質を取って病院に立てこもったコンビニ強盗と刑事との息の詰まる交渉ドラマから、事件は予想外の展開へ――という正統派サスペンス。2冊目の『安政五年の大脱走』は歴史娯楽ドラマで、3冊目の『1985年の奇跡』(双葉文庫)は下手なうえにやる気もない高校野球部を舞台にした青春ストーリー。『パパとムスメの7日間』(幻冬舎文庫)は父娘の体が入れ替わってしまうことから引き起こされるドタバタのハートフルコメディ、『リカ』(幻冬舎文庫)はストーカー女に追いつめられるサラリーマンの心理を描くホラーサスペンス。
五十嵐貴久の作品は読むたびに、ジャンルも作風もまったく異なり、そのたびに新しい発見がある。この人の頭の中には、いったい、いくつの引き出しがあるのだろうか・・・次の作品が待ち遠しくなる作家だ。