児玉さんがカバンから取り出した2冊の本『生活の設計』と『牛を屠(ほふ)る』は、どちらも私の労働経験を題材にした作品である。ただし、前者は小説で、後者はノンフィクションという違いがある。

 私は作家になる前、大宮にある屠畜場の作業員として働いていた。1990年7月16日から2001年2月10日までの10年半にわたり、主に牛の解体作業に携わった。

 大宮食肉中央卸売市場・大宮市営と畜場(現さいたま市食肉中央卸売市場・さいたま市営と畜場)はJR大宮操車場の北端に位置し、北関東一円と東北地方さらには北海道から運び込まれる牛や豚を屠畜して、出来上がった枝肉を競りにかけて首都圏に流通させている。

 牛に関していえば、品川区にある芝浦屠場が高級な肉牛ばかりを扱うのに対して、大宮屠場は乳牛としての役目を終えたホルスタインの牝牛を中心に、ランクがあまり高くない牛を引き受けていた。

 私の在職中は、1日平均、牛が100頭、豚が400頭くらいだったと思う。季節によって差があり、夏場は少なく、冬場の方が断然多い。牛の場合、11月中旬から2月中旬までは連日150頭が続き、それを20人足らずの作業員で解体していくのだから、脇目も振らずにひたすらナイフをふるい続けるしかない。

 生きている牛は温かく、解体されてゆく牛は熱い。裂かれた喉から溢れ出る血液、皮の下から現れる脂と筋肉、そして大きな腹にたっぷり詰まった内臓からも大量の熱気が放出される。コンクリート打ちっぱなしの作業場は真冬でも大型扇風機が回されて、それでも我々は大汗をかいた。

 1990年代に、1日平均100頭の牛を解体する屠場で、ナイフを基本に作業をしていたのは日本全国で大宮だけだったのではないかと思う。もろもろの事情から機械化が遅れたのが原因で、おかげでナイフの扱い方を徹底的に仕込まれた。

 文章はとても自慢できないが、ナイフの扱いについてならば、今でも胸を張りたい気持ちがある。それもこれも作業課の先輩たちが手取り足取り教えてくれたからで、この場を借りて、改めてお礼を申し上げたい。