しかし、現在の特捜検察は、当初から明確な政治的意図を持って知事を「抹殺」するということを行う余裕もなければ、その力もないように思える。

 マスコミ等から提供されたネタで捜査に着手し、何とかそれなりの成果を挙げて捜査を終結させようとして迷走を続け、無理な強制捜査・起訴に至る、というケースが相次いでいる。佐藤栄佐久氏の事件が、その主張通りだとすれば、それは、政治的意図による捜査で「抹殺」されたというより、むしろ、そういう特捜検察の苦し紛れの捜査の犠牲になったと見るべきであろう。

2000年以降相次いでいる東京地検の強引な捜査

 2000年以降、「鈴木宗男事件」「日歯連事件」「ライブドア事件」「防衛省汚職事件」「西松建設事件」など特捜検察が手がけた多くの事件の捜査が、検察にとっては不本意な結果に終わっている。そして、佐藤優氏の『国家の罠』、細野祐二氏の『公認会計士VS特捜検察』、堀江貴文氏の『徹底抗戦』など、起訴された被告人の立場で、検察の捜査や公判を批判する著書の出版が相次いでいる。そこで描かれているのは、事実とは異なる不合理な犯罪ストーリーを設定し、威迫、利益誘導などを用いた取り調べでストーリーに沿った供述調書を作成し、強引に事件を組み立てようとする特捜捜査の姿だ。

 今回の佐藤栄佐久氏の著書もその延長上にある。前半部分で「闘う知事」としての実績が熱く語られているのとは対照的に、後半の自己の収賄事件に関する部分では、実弟の祐二氏が経営する会社の土地取引を巡る疑惑が週刊誌で報じられ、同氏の逮捕、自身の逮捕、そして、事実と異なる自白調書に署名するまでの経緯が、淡々と描かれている。それだけに、かえって検察捜査の異常さが強く印象づけられる。

 日本の検察は刑事司法の「正義」を独占してきた。つまり、刑事司法は、すべての刑事事件が検察官によって「適正に処理されている」ことを前提にしてきた。検察は、原則として、刑事処分などの判断について公式に説明を求められることはない。不起訴処分について判断の理由の説明が公式に行われることはないし、不起訴記録も開示されない。

 検察の判断の適正さは、その理由を外部に説明することではなく、基本的には、「個々の検察官の判断ではなく検察庁の組織としての判断が行われる」ということによって維持されてきた。