山あいの細く曲がりくねった道路を車で登っていくと、いきなり視界が開け、眼の前に工場が現れた。山の中の秘密基地のようなこの会社が、世界の造船業界で知る人ぞ知るエンジン部品メーカー、ともえ精工(長崎県諫早市)である。

ともえ精工株式会社
〒854-0094
長崎県諫早市本明町2307-2

 ともえ精工が作るのは、ピストンやコンロッドといった大型船舶用の巨大なディーゼルエンジン部品だ。世界中の船舶エンジンメーカー、特に最近は中国、韓国、ヨーロッパなどのメーカーから製造の依頼が舞いこんで来る。

 「以前は2割くらい外国向けの仕事もしていたんですが、基本的にもう断っています。なにしろ国内の仕事だけで手一杯。手が回らないんですよ」(森本武弘社長)

 工場をフル稼働させる日が続くが、それでも生産が追いつかない。受注は2012年までの分がすでに確定しており、2007年は創業以来、最高の売り上げと利益を達成した。

 この好調ぶりは、外的要因のせいだけではない。製造工程の効率化、品質の向上、コスト削減など、様々な経営努力を何十年と重ねてきた結果である。一時期は事実上の倒産にまで追い詰められた森本社長は「もう二度と失敗しない」という思いでここまではい上がってきた。

父親の会社を引き継ぎ、いきなり社長に

 森本社長は中国・北京で生まれた。戦前に父親が中国にわたり、北京で事業を起こしたのだ。それは船舶用ディーゼルエンジンの設置、補修や、鉄道の建設などを行う会社だった。

 日本の中国進出という波に乗り、事業は大成功を収めた。最盛期には約4000人の社員が働き、現在の金額に直すと1兆円くらいに相当する資産があったという。会社の敷地内には芸者が寝泊まりする部屋があり、門の外では日本軍の将校が常に見張りをしていた。

山あいの細い道路を抜けると本社工場が見えてくる

 だが太平洋戦争が勃発し、日本は敗戦。会社は解体されてしまう。森本家はすべてを失い、日本に引き揚げることになった。

 父親は妻の実家がある諫早に居を構え、改めて機械加工の会社を興した。一方、森本氏は東京の大学で電子工学を学び、卒業すると富士通グループの電子機器メーカーに就職した。

 だが東京で羽を伸ばす生活は長くは続かなかった。1970年代初頭、入社して5年も経たずに父親に呼び戻されたのだ。「病気にかかり、もう仕事ができない。会社を継いでほしい」とのことだった。

 諫早に舞い戻ると、ほどなくして父親は亡くなった。いきなり約60人の社員を率いる社長となった。30歳の時だった。