選挙が近づくと、公共投資の在り方を中心に「無駄」かどうかという議論が、国会やマスコミで白熱するようになる。
この手の議論を聞くたび、筆者は大変不愉快な気持ちになる。声高に「無駄」と決めつける人を見るたび、「どうしてあなたの存在が無駄ではないと言い切れるのか」「『あなたの存在は無駄です』と言われたら、この人はどう反論するのか」と思うからだ。
議論が一足飛びに哲学的な世界に入らないよう、まずは公共投資から考えてみたい。「無駄な公共投資」というのは、筆者にはトートロジー(同義語反復)に聞こえるのである。
例えば今回のような不況時に、なぜ公共投資が必要なのか。それは、効率性優先の民間市場経済からはじき飛ばされた人々の雇用と賃金を、税金で確保するためではないか。すると、公共投資とは大いなる無駄であり、それを皆が承知で社会のセーフティーネットとして実行しているのではないか。
公共投資の乗数効果、本当に分かるのか?
補正予算の「無駄論議」の中で、ある政治家が「こんな公共投資プロジェクトは民業圧迫であり、けしからん!」と叫んでいた。
しかし、政府による無意味な規制が行われない限り、効率的分野には民間が進出しているのだから、民業圧迫になる公共投資は効率的だし、「無駄ではない」とも言えるだろう。
こう主張すると、「いや、どうせ同じ資金を投入するなら、もっと経済を活性化させるため、乗数効果の大きい事業をやるべきだ」「将来性のある分野に対し、産業政策として資金を投入すべきだ」という反論が聞こえてきそうだ。
まず、前者の「乗数効果」論を検証してみよう。そもそもダイナミックに変動する実体経済で、乗数効果の大きい分野が静態的に分かるのかという疑問が生じる。
そしてこの主張は、「できるだけ多くの社会的弱者に雇用と賃金を与える」という、不況対策における公共投資の使命を無視しているように思える。
次に、産業政策としての公共投資だが、これも「計画経済のように、政府主導で成長産業分野を創り出せる」という時代錯誤的な発想と言わざるを得ない。
厳しい不況下でも米国では、既に投資家のリスクマネーが次なる収益対象を求め、動きだしたと聞く。そのようなダイナミックな経済の中で、政府が公共投資で産業を育てるという発想が筆者には理解できない。
もしそれが可能だとしても、極めて長期的な事業であり、短期の不況対策とは無関係なはず。公共投資の対象先に関する議論は結局、論者にとって都合がよいか否かだけの話ではないか。