「あなたの仕事は、哲学エッセイのようなものになるでしょうね」

 1997年に死去した作家の埴谷雄高さんは、この本の著者、池田晶子さんにそう預言したという。預言は当たり、著者は「考えるとはいったいどういうことか」を日常の言葉で書き綴って、哲学エッセイの世界を創出した。しかしその人生は長くなく、2007年2月、がんのために46歳で亡くなった。

哲学は決して難しくない

私とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子著、講談社、1500円(税抜き)

 このたび、未発表原稿と書籍未収録原稿を「魂」「私」「死」の3テーマに集成、著者自身が記した墓碑銘「さて死んだのは誰なのか」を共通のサブタイトルにした「最後の新刊、3冊」が刊行された。2009年2月刊の『魂とは何か』(トランスビュー)、4月刊『私とは何か』(講談社)、『死とは何か』(毎日新聞社)の3冊である。

 考えて、「あ、そうか」と思ったことが、後に読んだ哲学書に書いてあったりする。哲学は、決して難しくない。『私とは何か』には、1973年、著者が小学6年生の時に書いた物語「空を飛べたら」が収録されている。

 ほかの鳥のようには飛べないニワトリが、そんな「私」であることを是認する心の境地を描き出して、鋭敏な感受性と思索の原点が読める。得意の作文を中断して10代半ばから多読と思索に耽った著者は、再び筆を執り、20代半ばから文筆家として活躍した。

 ただ、哲学自体が難しくなくても、〈長く生きることが善なのではなく、善く生きることだけが善なのだ〉(『魂とは何か』)を大原則とする哲学を取り扱うのは容易ではない。

正しいことを言うと嫌われるのはなぜ?

 哲学の祖と言われるソクラテスや『人生の短さについて』を書いたセネカらが迫害されたように、善いことを正しく語ると、時には軋轢が生まれる。なぜなら、〈正しいことを言うと、人は腹を立てる。正しい言葉は、毒に聞こえる。これは、どういうことなのか。決まっている。正しい言葉は、その人の正しくない部分を指摘するからである。正しくない、悪い部分、すなわちその人の内なる毒を明るみに出すからである〉(『私とは何か』)。

 考えているだけにして表現しない道もあったが、著者は “毒舌” と言われたりしながらも、書き続けた。「善を善と知っているというそのことが善、したがって努力するということであり、善を善と知らないというそのことが悪、したがって堕落するということである」「はじめからわかりたくない人を、どうしてわからせることができるわけか」は、誰もがぶち当たる壁だろうし、善意の行動をした人に対してうがった見方をする人々のことを「余計な深読みばかりをしていて、死ぬまで心の安まる時がない」連中だと指摘しているあたりは、とても共感する。

 哲学は、日常の中にあるのだ。子供であれば、こんな切実な問いがある。「Q つきあっていい友達と悪い友達は何が違うの?」

 著者は、亡くなる数カ月前、「子供の人生相談」で上記の問いにこう答えている。

 〈その人の友達を見れば、その人がわかるとは、昔から言われていることです。友達は自分の鏡だし、自分は友達の鏡です。お互いを感化し合いながら育んでゆく友情というのは、本当に素晴らしいものです。つきあっていいか悪いか、その人とつきあって損か得か、あらかじめそんなふうに選んでつきあう友達との間に、本当の友情が育つとは思えません。友情は宝だとも、昔から言われます。でも宝は、探すものではなくて作るもの。宝を作るためには、自分自身が宝のような人間にならなければならない。自分がそうした人間になれば、宝のような友達は、現われるに違いないのです〉(『私とは何か』)

 引用が長くなったが、率直、かつ明晰な回答に、中年の私も心打たれたのである。著者の早世が惜しまれる。もう新刊が読めないのは残念だが、「変える為の種を播く」著者の仕事は、亡くなった後もこうして3冊の本になって読者に届いた。「善悪とは」「生命とは」といった大事なことをよく考えてこなかったツケが社会現象となって現われている今、改めてその仕事を読んでおきたい。