岐阜城 写真/アフロ

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「大うつけ」(大馬鹿者)と評判

 尾張の織田信長(1534〜1582)は、青年期に、近習・小姓衆と、濃密なコミュニケーションを取っていたことは、前回に記しました。信長の行動は彼らを感激させ(若殿のためならば、一命を捨てよう)と思わしめたと予想されますが、信長に心を寄せたのは、若者だけではありませんでした。

 信長は、美濃国の大名・斉藤道三(1494?〜1556)の娘(濃姫)と「政略結婚」しますが、義父・道三も信長の才能を見抜いた男の1人だったのです。

斉藤道三

 信長の奇抜な出立ち、奇矯な振る舞いは「大うつけ」(大馬鹿者)と評判で、それは美濃国にも伝わっていました。道三の家臣のなかにも「婿殿(信長)は大馬鹿者でございますな」と堂々と言う者が複数いたようです。道三は「いや、人々がそのように申す時は、決して阿呆ではなかろう」と反論していましたが、少しは不安になったのでしょうか、それとも、百聞は一見に如かずと思ったのでしょうか。1度、婿殿と対面して、その人物を見極めようということになるのです。

 信長と道三が会見した年は諸説あるのですが、ここでは天文22年(1553)4月ということにしておきましょう。道三は「富田の正徳寺(聖徳寺、一宮市)に出向こうと思うので、織田上総介殿(信長)もそこまで御出でくだされば、有り難い。対面したい」と信長に申し入れたのでした。

聖徳寺跡 写真/フォトライブラリー

 信長は道三の頼みを躊躇なく、受け入れたようです。信長は不真面目な男との評判であったので、おかしな格好で現れたら、笑ってやろうという想いで、道三は、付き添いの家臣たちにわざと品の良い衣装を着させて、寺の御堂の縁に並ばせたとのこと。道三自身は、町外れの小屋に潜んで、信長がやって来る様子を覗き見していました。

 やって来た信長の身なりは、髪は茶せん髷で、虎皮を染め合わせた半袴を着、腰の周りには火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げるという「うつけスタイル」でした。

 ところが、正徳寺に着き、道三と会見する段になると、信長は髪型を整え、長袴を着した常識的な格好をして現れたのです。この変身を見た道三の家臣らは(日頃のうつけ振りは、わざとであったか)と驚いたようですね。御堂の縁を上った信長は、柱にもたれて1人佇む。そこに、屏風を押しのけて現れたのが、道三でした。

 信長はそれを知りつつも、知らん顔。堪りかねた堀田道空という者が「こちらが山城殿(道三)でござる」と信長に告げると、信長は「であるか」(『信長公記』)と一言。その後、内に入り、道三に挨拶、座敷に座ったのでした。湯漬けを食し、盃を交わし「対面の儀」は無事に終了。道三は苦々しい顔をして「また何れ、お会いしよう」と告げ、信長を見送ったと言います。

 数々の謀略により、美濃一国を手中にし「戦国の梟雄」「下剋上の体現者」と現代において評される道三が、完全に信長のペースに乗らされ、気圧されているように、2人の会見の描写を見ていて感じます。そのことが道三にもよく分かっていたので、苦虫を噛み潰したような顔になったのではないでしょうか。