●湖池屋の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら!
湖池屋を取り上げている連載も今回で3回目になる。過去2回は湖池屋の原点であり、同社を語る上では欠かせない「ポテトチップス のり塩」にスポットを当てた。
その「ポテトチップス のり塩(以下、のり塩)」は、湖池屋を創業した故・小池和夫氏(以下、和夫氏)によって世に送り出された。和夫氏はじゃがいもの品種、産地など、そうした知識や知見もないところからポテトチップスをつくり始め、日本ならではの味として、のり塩という味付けにまでたどり着く。ようやく完成した「のり塩」は評判が評判を呼び、爆発的に売れる一方、伸び続ける需要に生産が追い付かなくなってしまう。そこで、和夫氏は最新の生産・設備を学ぶため、ポテトチップスの本場・米国へと渡り、現地の工場などを視察。ポテトチップスの量産化を模索する。そして、設計図もない、手探りの状況から国内の機械メーカーとともに自前でオートフライヤーをつくり上げ、日本で初めてポテトチップスの量産化を実現させる。ここまでが過去2回のあらすじになる。
さて、3回目だが、「のり塩」が量産化された後に触れるとともに、激辛ブームの火付け役になった「カラムーチョ」が登場する手前、その辺りまでを視野に原稿を書き進めたいと思っている。
現在、「カラムーチョ」は「のり塩」などと並び、湖池屋の基幹商品として重要なポジションを担っている。この「カラムーチョ」を発売したこと。そのことも同社のターニングポイントになっているので、その点を気に留めつつ今回の原稿を読んでもらえればと思っている。
順調に売り上げを伸ばす中、カルビーがポテトチップスを発売
今から55年前の1967年、「のり塩」が量産化されると、その販売方法にも変化が生じる。「のり塩」は発売当時から袋詰めにされた商品が販売されていたが、その一方で菓子店などに一斗缶で納品し、それを店頭で量り売りするという販売形態も多く見られた。しかし、量産化の後、「のり塩」は流通菓子として袋詰め商品の販売へと大きくシフトしていく。
そして、量産化から3年後の1970年には「のり塩」に加え、5月に「ポテトチップス ガーリック」と「同 バーベキュー」、6月に「同 カレー」が発売され、フレーバーの水平展開によって商品のバリエーションが広げられる。また、同じ年には新工場として埼玉県に加須工場(※現在の関東工場)が竣工するなど、湖池屋は生産体制の強化を図りつつ、売り上げを順調に伸ばしていく。
このようにポテトチップスの量産化によって、湖池屋は大きな飛躍を果たすことになったが、すぐ先の未来には新たな試練が差し迫っていた。1970年代に入ると、ポテトチップスを製造・販売するメーカーは数多く存在することになる。しかし、量産化やじゃがいもの契約栽培など、他社に先駆け、いち早く取り組みを進めてきた湖池屋にとって、それほど大きな影響を及ぼすものではなかった。
だが、湖池屋が「のり塩」を量産化してから8年後の1975年、これまで順調に推移してきた流れにも転機が訪れる。その年、カルビーがポテトチップスのカテゴリーに本格的な参入を果たしたのだ。1975年当時、カルビーは既に1964年に発売した「かっぱえびせん」を筆頭に、1971年には「仮面ライダースナック(カード付)」、翌年の1972年には「サッポロポテト」、さらに、1973年には「プロ野球スナック(カード付)」、1974年にも「サッポロポテト バーべQあじ」と、矢継ぎ早にスナック菓子を発売。それらの商品をヒットさせていた。
先に列記した「かっぱえびせん」、「サッポロポテト」、「サッポロポテト バーべQあじ」は、現在でも販売されているロングセラー商品であり、「仮面ライダースナック(カード付)」や「プロ野球スナック(カード付)」も、あなたが50~60代であれば、カード集めに没頭した思い出とともに、懐かしい商品だったりすることだろう。つまり、1975年当時、カルビーはスナック菓子で、子供から大人まで、幅広い層をカバーする商品をそろえていたことになる。