「ぶらぶら社員制度」については、永谷園のホームページでも漫画で分かりやすく紹介されている

●永谷園の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら

 永谷園を題材にスタートした連載も、そろそろ大詰めを迎えている。記憶されている方も多いと思うが、連載の初回、永谷園の「変えない・変わらない」姿勢と「変わり続ける」姿勢に触れ、この2つの姿勢を併せ持っていることが、同社の強さにつながっていると述べた。

 そして、「変えない・変わらない」という側面にスポットを当て、関連するエピソードとして、連載2回目で「お茶づけ海苔」が誕生するまで、3回目に海苔と「さけ茶づけ」を例に、商品に対するこだわり。そして、4回目には江戸時代からつながるお茶漬けと永谷園の軌跡について取り上げた。

 ところで、今回(5回目)だが、永谷園の強さを表現する上で、欠かせないもう一つの側面「変わり続ける」姿勢について、エピソードを交えながら紹介したいと思っている。

当時、マスコミでも話題となった「ぶらぶら社員制度」

 皆さんは「ぶらぶら社員制度(以下、ぶらぶら社員)」という言葉を耳にしたことがあるだろうか? あなたが60代以上であれば、「知っている」「聞いたことがある」と答えるかもしれない。しかし、60代未満であれば、「知らない」「初耳」という人が大半を占めるのではないかと思っている。

 この「ぶらぶら社員」は、今から43年前の1979年に永谷園が採用した社員制度になる。「ぶらぶら社員」は、そのネーミングに加え、内容も奇抜だったことから、当時のマスコミでも広く取り上げられ、大きな話題となった。

 過去の話になるが、永谷園が実施した「ぶらぶら社員」とは、どのような制度で、何を目的につくられたのだろうか? ご存じの方には申し訳ないが、今回はその辺りから話を始めたいと思う。

 「ぶらぶら社員」が採用された1979年は、永谷園の名誉会長・故 永谷嘉男氏(以下、嘉男氏)が社長を務めていた時代でもある。1952年の「お茶づけ海苔」の発売以降、「ぶらぶら社員」が誕生するまでの28年間、永谷園は「さけ茶づけ」「梅干茶づけ」でお茶漬け商品のラインアップを拡大。同時に「松茸の味お吸いもの」や即席みそ汁「あさげ」「ひるげ」「ゆうげ」をはじめ、すしの素の「すし太郎」なども発売し、従業員数にして約1000名を有する規模にまで成長を遂げていた。

永谷園の名誉会長・故 永谷嘉男氏。「お茶づけ海苔」をはじめ、「松茸の味お吸いもの」「あさげ」「すし太郎」など、嘉男氏のアイデアが起点となり、数々のロングセラー商品が生み出された。また、「ぶらぶら社員制度」など、商品以外でも嘉男氏はアイデアマンとしてエピソードを残している

 こう書くと、順風満帆に聞こえるかもしれないが、永谷園には手放しで喜べない理由があった。

 先に記した商品は、現在もロングセラーとして健闘している商品になるが、これらは社長である嘉男氏のアイデアが起点となって誕生したものだった。このことは嘉男氏という個人の能力として見ればスゴイことと言える。しかし、企業・会社として見ると、このことは問題であり、解決すべき課題へと姿を変えることになる。

 まして、大きく成長を遂げた永谷園。その社長として経営の舵取りを行わなければならない嘉男氏にとって、常に商品開発の先陣を切り、アイデアを出すという状況は、組織機能の維持や社員・人材の育成などを含め、会社のさらなる成長さえも阻むことになりかねない。

 こんなことは私が言うまでもなく、当然、嘉男氏も考えていたはずだが、そんなある日、嘉男氏は、ふと思い付く。『自分がやれないのなら、自分の分身をつくればいい』と。なんともアイデアマンの嘉男氏らしい発想だが、それを決断し、実際に実行してしまう行動力にも驚かされる。そう、こうして「ぶらぶら社員」は産声を上げることになったのだ。