飯舘村にお詫びにやって来た東京電力の幹部に村民の1人が罵声を浴びせようとしたところ、すぐに隣の村民が「やめろ、飯舘村の恥になるぞ」と静止したそうです。これを菅野典雄村長はこの地方の方言を使って「までいの心」だと言います。

 一方で菅野村長は、住民がいなくなる飯舘村の警備のために村民の警ら隊を組織、そのための費用として国から6億円をしっかり引き出しています。真心とともにビジネス精神もしっかり育んできたということでしょう。

 景色も住む人の心も美しい飯舘村の1日も早い復興を心から応援したいと思います。

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菅野典雄・飯舘村長(2011年5月21日)/前田せいめい撮影菅野典雄(かんの・のりお)氏
1946年福島県飯舘村生まれ。酪農を営む傍ら、89~96年に嘱託として飯舘村公民館長を務める。96年10月に飯舘村長に就任(撮影:前田せいめい、以下同)

 飯舘村は福島原発から40キロほど離れています。まさか我々に放射能被害が及ぶとは思ってもみませんでしたから、本当になぜなのよ、という思いがあります。

 水素爆発が起きた時に、ちょうどこちらの方に風が吹いていた。しかも高冷地で、あの日は雪が10センチくらい降った。それで放射性物質が山にぶつかって落ちてきてしまったんですね。

 当時はそんなこと知りませんから、震災後10日間くらいは避難者を1200人ほど一生懸命受け入れていたんです。まさに濃度が高い時でしたので、我々も避難者も、その影響は本当に心配です。

 今は計画的避難を進めています。

 ただ、完全に村から去るのではなく、例えば老人ホームのお年寄りは残れるようにし、事業所も継続操業できるようにしました。国と交渉し、年間20ミリシーベルトという要件を守りながら、避難先から職員が村に通うことを認めてもらいました。

国と戦い、村民の生活を極力守る「計画的避難」

 とにかく健康のためにと言って、そこに暮らす人のリスクや生活を何も考えずに避難させるのは問題だと思います。それでは、たとえ健康が保たれても、全く別の形で精神的にも肉体的にも健康を害していく。

 飯舘村でも屋内は放射線量が低いんです。例えば老人ホームにいるお年寄りは、放射線のリスクよりも無理に避難させるリスクの方が大きい。実際、私の妻のお袋も震災後に移動させられて亡くなっていますから。

 事業所にしても、村民の生活を考えてのことです。通勤できるところに避難先を確保すれば、仕事を失わずに済む。私たちは後発避難なので行き先が限られていましたが、絶対に1時間以内の場所に、と言って職員が必死になって避難先の物件を探しました。そのおかげで、9事業所、約550人の雇用を維持できたのです。

 防犯体制も敷きました。ここは農村で一軒一軒が離れていて、しかも、放射能の濃度は10キロ圏、20キロ圏ではないので人が入れる。その道の方には格好の場所です。そこで、避難された年配の方などが村に来て、短時間ずつ、24時間体制でパトロールすることにしました。そのために国からおよそ6億円の人件費を取ってきました。すべて村民の暮らしのためです。