私はこのコーナーでまちづくりについて地方から発信している。「まちづくりの哲学」というタイトルからも分かるように、哲学者として哲学的視点からそれを論じているつもりである。

 哲学的視点とは、ものごとの本質に迫るという意味だ。今回は新年度最初の掲載でもあるので、この連載で私が試みようとしていることの本質に、改めて迫ってみたいと思う。つまり、「地方のまちづくり」とは何なのかということについて、じっくりと考えてみたいのである。

 単純に考えれば、それは地方の活性化であるとか、ひいては日本全国を盛り上げるためだとかいう答えが頭に浮かんでくるであろう。しかし、本当にそうなのだろうか。地方を活性化するというのは、どういう意味を持つのだろう。

 どこの地方都市の総合計画を見ても、経済的に自立し、都市としての機能を充実させることを目標としている。もちろんそこには地方ならではの「自然と文化との調和」がセットで謳われているわけであるが、それは何も地方に限った話ではない。地方の対極にある東京だって、都市としての発展と、自然や文化との調和を目指しているのである。

 ということは、地方のまちづくりとは、経済発展と、自然・文化との調和の頂点を目指すものであり、今のところその一番手と目される東京になることを目指しているとも言えるのである。

まちづくりの虚しさ なぜ地方は主役になれないのか

 もし本当に地方が皆東京に対してコンプレックスを抱いており、東京になることを目指しているのだとするならば、まちづくりという運動には矛盾が生じてくる。なぜなら、地方を活性化した結果、それが成功して日本全国どこも東京になってしまったら、地方というものがなくなってしまうからである。

 地方とは東京と違う何かであって、だからこそ地方という名称、さらに言うとアイデンティティーを持っているのである。それをすべて東京にしてしまおうというのは、地方の自殺ではないか。ここにおいて、「地方の活性化は地方の死である」というパラドックスが生じてくる。

 そもそもなぜ私たちは田園風景に憧れるのか。それは、あれこそが地方の原風景であり、地方の存在意義だからである。わざわざ夏休みに地方に行くのは、都会とは違う世界を求めるからなのである。

 ところが、地方に行くたびに感じるのは、どこも一様に発展してきて同じようなまちになっていく滑稽さと悲しさである。それも東京もどきの・・・。東京を目指す限り、地方はいつまでたっても主役になれないというジレンマが存在するのだ。そんなまちづくりは虚しいだけである。