落とし穴にはまり晩節を汚した

 結局シュレーダー氏は、プーチン大統領によって利用された。秘密警察や諜報機関は、自分の掌中に収めたいと考えた人間と長年にわたって親交を結び、協力者に仕立て上げる。KGBでも伝統的な手法である。秘密警察や諜報機関で働いた者にとって、本音を隠して嘘をつくことは日常茶飯事である。秘密警察出身の人間と付き合う際の鉄則は、「この人は嘘をつくことが、当たり前と考えている」と意識することだ。

 シュレーダー氏を始めとするドイツの多くの政治家は、この鉄則を守らず、プーチン大統領に取り込まれた。プーチン大統領は、KGBで学んだ手法を使って、ドイツの元首相を金で篭絡し、欧州最大の経済パワーが長年にわたってロシアからの安い化石燃料という「甘い毒」に依存するように仕向けた。

 シュレーダー氏は、2022年4月に米ニューヨーク・タイムズの記者に対して行ったインタビューで、「私は私腹を肥やすためにロシアとの間でガス貿易を拡大したのではない。エネルギーを通じてドイツとロシアの間の結びつきを深め、欧州の安全保障を強化することが目的だった」と語っている。しかし彼の刎頸の友がウクライナ文化の消滅をめざして、第二次世界大戦以来最悪の侵略戦争を続けている今、シュレーダー氏の理想論は空しく響く。

 今やシュレーダー氏は、ドイツで軽蔑され、蛇蝎のように嫌われている。SPDの複数の地方支部は、執行部に対し彼を党から除名するよう求める申請を提出した(SPDは、シュレーダー氏の除名は断念した)。シュレーダー氏は、ロシアを擁護する言動のために、居住地ハノーバーの名誉市民や地元サッカーチームの名誉会員の座も追われた。シュレーダー氏はプーチン大統領が仕掛けた落とし穴にはまり、政治家としての晩節を汚した。

 シュレーダー氏はニューヨーク・タイムズとのインタビューの中で、「もしもガスプロムがドイツへの天然ガスの供給を止めたら、私はNS1運営会社の監査役会長を辞任する」と語った。シュレーダー氏は、2022年8月31日にガスプロムが天然ガスの供給を止めてからも、監査役会長の座から辞任していない。この一点からも、彼が道義心に欠ける人物であることがわかる。同時に、100人が「黒」と言っても、自分だけは「白」と言って我が道を行く頑固さには、極めてドイツ的なものを感じる。

熊谷徹
(くまがいとおる)1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。

◎新潮社フォーサイトの関連記事
ヒトの方が、他の動物にウイルスを感染させている
資金面では大苦戦、そのトランプにテコ入れする富豪のマネー
北朝鮮と中国「国交樹立75周年」の式典で露呈した温度差