錦江(扶余) 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

はじめは武官として出仕

 今回も一芸を持った人物を取りあげる。絵師として有名な百済河成(くだらのかわなり)である。『日本文徳天皇実録』巻五の仁寿三年(八五三) 八月壬午条(二十四日) は、次のような卒伝を載せている。画技でもって正史に特筆されたのは、この河成がはじめてである。

散位従五位下百済朝臣河成が卒去した。河成は、本姓は余(あぐり)。後に百済と改めた。武猛に長じ、能く強弓を引いた。大同三年、左近衛となった。図画を善くしたので、しばしば召見された。写した古人は真に迫っており、また山水草木は皆、生きているようであった。昔、宮中にいたころ、或る人に従者を召させたが、その人は従者の容貌をまだ見たことがないと言って辞した。河成がすぐに一紙を取って、その形体を画いた。或る人は遂に従者を連れてくることができた。その機妙の類は、このようであった。今、絵を画く者は、すべて河成の画法を用いている。弘仁十四年、美作権少目に拝任された。天長十年、外従五位下を授けられた。累進して、承和年中に備中介となり、次いで播磨介となった。時の人はこれを栄誉とした。卒去した時、年は七十二歳。

 百済氏は百済国第二十八代国王である恵(けい)王(有名な聖[せい]王〈聖明[せいめい]王〉)の後裔を称するが、史実のほどは不明である。というより、渡来系氏族のこの手の系譜は、ほとんどが詐称である(義慈王の末裔である百済王氏は例外)。

制作/アトリエ・プラン
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 本姓が余氏というのも、百済王と同じ姓を称したものであろうが、この時代になると、かつて朝鮮半島に存在した倭国の同盟国である百済(ひゃくさい)のことなど、誰も気に留めなくなっていたであろう。なお、『日本文徳天皇実録』の廣橋伯爵家旧蔵本(久原文庫所蔵)では、「余」のところに「アクリ」というルビを振っているが、その語源は不明である。

 河成は、余時善の子とする系図もあるが、これも真偽は不明である。承和七年(八四〇) に兄の福盛とともに百済朝臣の姓を賜わった。あるいはこの時に恵王の子孫とする系譜を作ったのかもしれない。

 はじめは武官として出仕して勇ましく猛々しく、よく強弓を引いたという。大同三年(八〇八) に左近衛に任じられたが、絵画に優れていたことから、しばしば宮中に召し出された。絵画をどうやって習得したのかは不明であるが、おそらく渡来系氏族に伝わる技能だったのであろう。写した古人は真に迫っており、また山水草木は皆、生きているようであったと卒伝にあるから、その描法は奈良時代以来の唐朝絵画の写実的表現法にのっとったものと推定されている(秋山光和『平安時代世俗画の研究』)。

 卒伝は、従者の似顔絵を描いてある人に召させたところ、その人は従者に会ったこともないのに、従者を連れてきたという逸話を載せている。このような逸話を載せるのも、正史としては異例のことである。いったいどうやってこの話が編纂時まで伝わっていたのか、気になるところである。

 さて、絵画については抜群の名声を得た河成であるが、絵詞が職業になるわけでもなく、河成は律令官人として細々とした歩みを続けた。なお、河成が画いた絵は、現在、何も残っていない。

 弘仁十四年(八二三) に美作権少目に任じられ(これは任地に赴任したかどうかは不明)、仁明朝初頭の天長十年(八三三) に外従五位下に叙された。渡来系氏族出身ということで、外位を授けられたのである。承和年間(八三四ー四八)に備中介・播磨介・安芸介を務めるなど、国史の次官を歴任した。百済朝臣姓を賜わったのは、この間のことである。それが奏功したのか、承和十二年(八四五)には内位の従五位下に叙された。その出自を考えれば、時の人が称讃したように、これはとんでもない栄誉だったことであろう。

 そして仁寿三年に散位従五位下で卒去した。七十二歳。本人にとっても、充実した人生だったものと推察される。

 しかし、河成には死後の伝説が数多く作られることとなった。嵯峨院の造営に際しては御堂の壁の絵を描くと共に、滝殿の石組みも造り上げたという(『今昔物語集』)。この滝の水は平安時代中期に枯れ、石組みだけが残った。藤原公任(きんとう)の「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」という歌で有名となり、「名古曽(なこそ)の滝」と称された。発掘調査で中世の遣水が発見され、現在は見事に復元されている。

『今昔物語集』には、飛騨(ひだ)の工(たくみ)と技術を競った説話が収められている。工が一間四面の堂を建てたので壁に絵を画いてほしいと河成を誘った。河成が行ってみて扉から入ろうとすると扉が次々と閉じてしまい、どうしても入れなかった。

 数日後、河成が工を誘い、工が河成の家に行くと、部屋の中に腐敗した死体が横たわっており、工は驚いて部屋から飛び出した。その死体は河成が障子に画いた死人の絵であった。

 という話が本当にあったとは思えないが、私は実はこの話を中学生の時に美術の平井憲廸(のりみち)先生(けっこう有名な画家)から聞いた。この先生はわれわれ高田学苑中学校全生徒の(美術に限らず) ものの見方を根底から変えてくれた方である。今回、河成の卒伝を読んで、先生を五十一年ぶりに思い出したので、ここに記して遺徳を偲ぶこととする。