伝小野篁墓 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

長大な薨伝の理由

 小野(おの)氏を取りあげるのははじめてである。『日本文徳天皇実録』巻四の仁寿二年(八五二)十二月癸未条(二十二日)は、小野篁(たかむら)の長大な薨伝を載せている。

参議左大弁従三位小野朝臣篁が薨去した。篁は参議正四位下岑守の長子である。岑守(みねもり)は弘仁の初め、陸奥守となった。篁は父に随って客遊し、弓馬をよくした。後に帰京してから、学業に取り組まなかった。嵯峨(さが)天皇はこれを聞き、嘆いて云ったことには、「漢詩に優れた岑守の子であるのに、どうして弓馬の士になってしまったのか」と。篁はこれによって過ちを悔いて恥じ、すぐにはじめて学業に志した。

弘仁十三年春に文章生試を受けて及第した。天長元年に巡察弾正に拝任された。天長二年に弾正少忠となった。天長五年に大内記に遷任された。天長七年に式部少丞になった。天長九年に従五位下を授けられ、大宰少弐に拝任された。詔が有って、任地に赴くことを許されなかった。その夏、父の喪にあたって、悲しみのあまり体がやせ衰えたことは通常よりも甚しかった。天長十年に東宮学士となり、すぐに弾正少弼に拝任された。承和元年に遣唐副使となり、翌承和二年春に従五位上を授けられ、備前権守を兼任した。数箇月して、刑部大輔に拝任された。承和三年、正五位下を授けられた。

承和五年春、遣唐使たちの四隻は、順に海に漕ぎ出した。ところが大使参議従四位上藤原常嗣(つねつぐ)が乗った第一船は、穴が開いていて水が漏れた。詔が有って、副使の乗る第二船を、改めて大使の第一船とした。篁が抗論して云ったことには、「朝議が定まらないことは、再三である。また、初め船の順番を定めた日、最もよい船を選び取って第一船とした。分配した後、再び漂廻(ひょうかい)を経て、今、また改易し、危い船に配当された。己の利得のために他人の損害に代えるものである。これを人情に論じれば、これは逆施となり、既に面目は無い。どうして部下を率いることができようか。私(篁) は家が貧しく母親も老いている。我が身もまた身体が弱く病気を患っている。私は水を汲み薪を採るなどの世話をして、匹夫の孝養を尽くすのみである」と。執論して、再び舟に乗らなかった。

近きは大宰府の鴻臚館(こうろかん)に、唐人沈道古(ちんどうこ)という者がいた。篁が才思が有ることを聞き、数篇の詩を賦して唱和した。唱和した詩を見る毎に、常に素晴しい詩や文章を讃美した。承和六年春正月、遂に詔に対捍したというので、除名して庶人(しょじん)とし、隠岐国に配流された。路上で『謫行吟』七言十韻を賦した。文章は華麗で、興趣は優美で深遠であって、漢詩に通じた者で吟誦しない者はなかった。およそ当時の文章では、天下に無双であった。草書や隷書の巧みなことは、古えの二王(王羲之[おうぎし]・王献之[おうけんし])に通じていた。後世に書を習う者は、皆、模範とした。

承和七年夏四月に詔が有って、特別に赦されて帰京した。承和八年秋閏九月に本位に叙され、十月に刑部大輔に任じられた。承和九年夏六月に陸奥太守となった。秋八月に入京し、東宮学士に拝任された。その月、式部少輔を兼任した。承和十二年春正月に従四位下を授けられた。

時に法隆寺僧善愷(ぜんがい)が、少納言登美(とみ)真人直名(なおな)が寺の檀越(だんおつ)として法を枉(ま)げたということを告発し、これを太政官に訴えた。太政官は訊問を加え、ようやく決断しようとした。ところが世論が嗷々として、善愷は私曲(しきょく/よこしまな行為)を行なったとした。これによって朝廷は更にこの事を論じ、延びて分かれて争うに至った。名例律では私曲は相須(そうす)の二義がある。或いは一つとし、或いは二つとしている。弁官の上下の者は、かえってその咎(とが)を蒙(こおむ)り、遂に明法博士讃岐(さぬき)朝臣永直(ながなお)にこれを勘申させた。勘申して云ったことには、「私曲に両字は、混ぜて一科に処す。これは相須の義である。今回の事は、ただ一犯が有り、罪を結するに足りない」と。

事は未だ決断し終わらなかったが、篁は承和十三年五月に権左中弁となって、新たにこの事に関わることになった。すぐに律文に拠って考えたことには、「私と曲とは、明らかにこれは二つである。若しくは私、若しくは曲。これは一つである」と。未だその罪を免されることなく、長引いて日月を経ても決断することができなかった。そこで私曲について律義を議定することを請う表を上呈した。ならびに扱った状について法家が律義に熟達していないことを糺弾し、弁官を私罪に処すべきであることを明らかにした。

篁は初めこの論の不公平であることを恨み、時勢を非難する詩三十韻を作り、参議滋野(しげのの)朝臣貞主(さだぬし)に寄せた。後に重ねて諸儒に傍議させたところ、その文に云ったことには、「右大臣の宣を蒙るに、『勅を承るに、「参議小野篁朝臣の上表及び扱った律文によって議定し、考え申すように」と。謹んで宣旨により、律文を繰りかえし調べたところ、公罪とは公事によって罪を犯して私曲の無いものを謂う。律疏(りつそ)に云ったことには、「私曲、相須は公事を与奪する。情は私曲が無く、法式に違うとはいっても、これを公坐とする」と云うことだ。私罪条の疏に云ったことには、「私罪は公事によらずに私に自ら犯すものを謂う。公事によるとはいっても、意は阿曲(あきょく/不正) にわたる。また私罪と同じである」ということだ。これによって考えるに、私は公事によらず自ら犯した名、曲は公事によるとはいっても意は阿曲にわたる謂である。相須はつまり、私と曲と、二事を待つ道理である。それならばつまり、私では無く曲では無い。公罪とすべきである。一つに私、一つに曲。私罪を免さない。ところが永直たちの説に云ったことには、「私曲は私の曲、相須を謂う」ということだ。私曲の両字を合わせて一義とする。連ねて読む意を云々すれば、文の義は錯綜する。公私を分けない。この説の疎いことは、よって信じることは難しい。篁朝臣が執論したところは、誠に適切である』と」と。

篁は九月に左中弁に遷任された。承和十四年春正月に参議となった。四月に弾正大弼を兼任した。承和十五年春正月に左大弁兼信濃守に転任した。夏四月に、また勘解由長官を兼任した。仁寿二年春正月に左大弁に転任し、他は皆、元のとおりであった。明くる嘉承二年春正月、従四位上に加叙された。夏五月、病によって官を辞し、家に帰った。嘉承三年四月、正四位下に加叙された。仁寿元年春正月、近江守を遥任された。明くる仁寿二年春、病が癒え、また左大弁となった。後にまた、病が発り、朝参できなくなった。文徳(もんとく)天皇は深く矜憐し、何度も使者を遣わして病気を見舞わせ、銭穀を下賜させた。冬十二月、家にいたまま従三位に叙された。重態に及んで、子供たちに命じて云ったことには、「気が絶えたならば、すぐに葬れ。人に知られることのないように」と。薨去した時、行年は五十一歳。篁は身長が六尺二寸。家は元々清貧で、母に仕えてこのうえなく孝行であった。朝廷の奉給は、皆、親友に施した。

 正史がこれだけの薨伝を載せるというのは、いわゆる善愷訴訟事件の経緯に関する史料を詳しく載せているからでもあるが、やはり篁の人となりや、遣唐使乗船拒否という特異な事件に大きな関心を寄せて同情していたからであろう。