みさきは5年前、18歳のときに地すべりで母を亡くした。母の呪縛から解かれたみさきは、免許を取ったばかりの車を運転して、あてもなく広島までやってきた。そして、この清掃局でドライバーとして働き始めた。そんな過去を語る。

 その間、5分間くらいだろうか、建物の外観や、美術館のような見学路、南側の階段状の広場などがたっぷりと映る。

 映画を見終わった後、これは村上春樹の原作にも描かれているのだろうか、と気になって、文庫(文春文庫『女のいない男たち』に収録)を買って読んでみた。想像はしていたが、原作にはなかった。

 中工場のエピソードは濱口竜介監督の創作だ。産経新聞には、こんな裏話が載っていた。

 話題の「ドライブ・マイ・カー」の原作の舞台は東京で、主なロケ地としても、当初は韓国・釜山で決まっていたという。だが、新型コロナウイルス下で海外ロケが行えず、映画の設定となっている国際演劇祭の開催地に適した都市を探していたそうだ。(中略)

 特に濱口監督がほれ込んだ場所の一つが、河口の埋め立て地に建てられた美術館のような趣があるゴミ処理施設「広島市環境局中工場」だ。(中略)「建物内部の中央をガラス張りにし、平和都市の『軸線』を遮らずに海へと抜けるようにして浄化させていると説明したら、台本に書かれていてすごくびっくりしました。映画に出てくる女性ドライバーさんの大切な場所にもなっています」と西崎さん(撮影を支援した広島フィルム・コミッションの西崎智子さん)。

引用元の記事:カンヌ脚本賞の濱口作品も ロケ地・広島の磁力(https://www.sankei.com/article/20210725-5USNUAII4JJWXHRDFEMWPBKNWY/

なぜこのシーンで「中工場」なのか?

 前述したように、この映画はさまざまなエピソードが、後になって「伏線」として回収されていく。だが、この中工場については、ここを取り上げた理由が明確には説明されない。これだけ緻密な脚本を書く人が、「絵になるから」というだけで重要シーンに使うことはないだろう。なので、勝手にその意味を考えてみた。

 このシーンのカギは、みさきが工場内のクレーンやゴミの山を見ながら言う「花びらみたいでしょう」というセリフなのではないか。そして、海に向かって伸びる見学路の先に見える光がもう1つのポイント。その空間は、長いトンネルのようでもある。

 みさきにとって、これまでの人生は「散っていくだけ」のものだった。来る日も来る日も散っていく作業を繰り返すゴミ処理工場。しかし、心の底ではいつか光が訪れると願っている。光は遠くに確かにある。そんな思いをこのシーンに重ねたくて、ここをロケ地に選んだのではないか。