2月で44歳になったのだから、もう20年以上も前になるが、ある日大学の寮の一室で、自分はこれから先、いったい何をして生きていきたいのだろうと考えた。

 数日はかかると思っていたのに、答えは案外簡単に出た。たとえ意に満たない職業に就くしかないとしても、家庭を持ち、子供を育てたい。

 当時交際している女性はいなかったので、「誰と」の項目が抜け落ちているのがおかしいが、その答えは私の内心の欲求を見事に言い表していると思われた。

 つまり私は仕事を通して社会で活躍するよりも、家庭を営むことのほうがよほど大切だと考えていたのである。さらに言えば、恋愛よりも結婚を重視しており、熱烈な恋人同士であるよりも、長い年月にわたって夫婦であり、親子でありたいと思っていた。

家庭という束縛

 自分の希望をそう確認してみたものの、表立って口にするのははばかられた。なにしろ世はバブル経済の真っ盛りで、日本中が快楽の宴に酔い痴れていたし、当時隆盛を極めていたニューアカデミズムやフェミニズムも、一夫一婦制の不合理をあげつらい、家庭の束縛を攻撃するばかりで、それらの意義を顧みる姿勢は皆無だったからだ。

 たしかに家庭は人を束縛する。夫であり、父親であれば、収入のほぼ全ては家族の衣食住を賄うために使われてしまう。休日だって子供の面倒を見なければならないし、気の合う女性が現れて、向こうも憎からず思ってくれていることが分かっても、おいそれとは情事に踏み出せない。

 女性の負担は言うまでもないだろう。共働きであっても、家事の大半は女性が引き受けて、男性は手を貸すのがせいぜいである。それすらも耐え切れなくなった夫が浮気をしたり、ギャンブルにのめり込んだりして、離婚後に女性が一切合財を背負わされるといったケースはそこいら中に転がっている。

 ドメスティックバイオレンス、児童虐待、一家心中、不登校、モンスターペアレンツ、介護放棄、親殺し、子殺し。