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(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

※本稿は『自分がおじいさんになるということ』(勢古浩爾著、草思社)より一部抜粋・再編集したものです。

 いまから50年以上前、21歳のとき、わたしは大学を1年間休学し、ヨーロッパにヒッチハイクの旅に出た。当時、ヨーロッパでヒッチハイクなるものが流行っているという情報はつかんでいたのである。

 元々は自転車世界一周旅行の予定だった。マルセイユまで貨客船で行き、そこから自転車でヨーロッパを一周したのち、アメリカに渡ってアメリカ横断をするつもりだったのだ。計画をたてたのは高2のときである。アメリカの石油会社の住所を調べては、道路地図を送ってくれませんか、と手紙を何通も書いた。ある会社の副社長という人から返事が来たときは、日本の広島に住む一高校生は小躍りするほど喜んだものである。

 大学に入ってから2年間アルバイトに精を出した。だが結局は、自転車を買う金も、船で運ぶ船賃ももったいなく、というよりアルバイトでは貯められる金にも限度があって、やむなくヨーロッパ・ヒッチハイクの旅に縮小したのである。となるともう船に乗る必要がない。往きのルートはマルセイユまでの船旅から、もっと安くて早いソ連のシベリア鉄道経由に変更した。

 当時は持ち出し外貨の制限額が500ドル(1ドルが360円だったので18万円)だった。マヨネーズ工場や印刷工場の徹夜のアルバイトで貯めた手持ちの資金は、横浜からフィンランドのヘルシンキまでの旅行代金を払うと、12万円ほどしか残らなかった。あとは父が餞別にくれた2万円だけ。帰りの旅費はスウェーデンで皿洗いをして稼ぐつもりだった。

恥ずかしかったがなんとか慣れた

 1969年(昭和44年)2月に横浜港から、ソ連のナホトカに出発した。オルジェニキーゼ号。上はジージャン、下は白の綿パンのいでたち。いまでは時代遅れになってしまった黄土色のでかい登山リュックを背負った。

 リュックの表にはマジックで「NIPPON」と大書し、寝袋その他を入れた。両サイドのでかいポケットには宗幹流ヌンチャクと釵(サイ:十手みたいな武器)を差した。片道切符しか持っていなかったが、それでまったく、今風にいえば「1ミリ」の不安もなかった。もう勇気凛々、意気揚々、やる気満々で、楽しみしかなかったのだ。

 飛行機と鉄道でソ連を横断してフィンランドのヘルシンキまで行った。ヘルシンキから船でストックホルムに行き、2日ほど滞在したあと、いよいよヒッチハイクがはじまった。行く先はノルウェーのオスロ。

 郊外まで1時間ほど歩き、さてやるかとリュックを道端に下ろし、こんなことか? と、親指を立てた右手を挙げた。これがまあ恥ずかしかったのなんの。が、人間はなんでも慣れるものである。