夫について北朝鮮に渡った日本人妻の末路

 申誠は3人兄弟だったが、全員が政治犯収容所に収容された。申誠の兄は70年代初めに脱北しようとして捕まり、弟はビラをまいたという陰謀に巻き込まれた。80年代初めには76歳の父親が脳卒中で亡くなり、次いで日本人の母親も亡くなった。家族全員が滅殺するという惨状が、日本人妻たちのなれの果てである。

 私は脱北後の2017年、東京新聞の記者に頼んで記事を書いてもらった。申誠のためにも、日本にいた彼の恋人を捜してあげたかったのだ。しかし残念ながら申誠の恋人は今も見つかってはいない。

 北送在日同胞9万3340人のうち、日本人妻は1800人ぐらいいた。親兄弟に行くなと止められたのに、子供のためと思い、朝鮮人の夫について渡ってきたのだ。

 彼女たちは北朝鮮に来たことを深く後悔していた。D郡の小さな村には日本人妻が5人いて、全員が悲惨な人生を送っていた。日本人の彼女たちは誰からも相手にされず、話し相手は夫と家族しかいない。月日がたつと日本語を忘れてしまった。かといって朝鮮語も話せない。言語中枢がマヒした「ロビンソンクルーソー」のような状態になっていた。

 脱北の機会をうかがいながら過ごす日々が続いた。90年代初めになると、北朝鮮の経済状況はさらに厳しくなり、「苦難の行軍」と呼ばれた。国中が飢えと死の叫びで埋め尽くされた。北朝鮮は単なる弱肉強食の国に成り果て、奪い奪われるという構図が形成された。

1990年代の経済危機の際、金正日総書記は「苦難の行軍」というスローガンを掲げた(写真:TASS/アフロ)

 北送在日同胞の生活は、台風が通り過ぎた後のアシ畑のごとく崩壊した。朝鮮総連と北朝鮮側で組織された「祖国訪問団」の一員として北朝鮮に来ていた日本の両親たちも来なくなった。ほとんどの親たちは年を取って亡くなってしまったのだ。

 直系家族でもなければ、北朝鮮に渡った親戚に物資やお金を送るなどの援助はしないものだ。北送在日同胞の人格や生活の構図は一変し、困窮の度合いはさらに増した。「苦難の行軍」の時期、日本の親戚に頼って生きてきた人々の生活は、一瞬にして暴風雨にさらされたのである。北送在日同胞は多くの人が物乞いになり、「乞食胞」と呼ばれる人が大勢いた。