修法中、自分が宇宙か宇宙が自分か分からなくなるという境地に到達する

 私たちが五感を使って見るもの、体験するもの、触れるものは、すべて「これを見る」「これを体験する」「これに触れる」という意思の後に出現している。

 この順番が変わることはない。すべては意思が私たちを動かしている。

 もし、目標を達成するために、神頼みをしたとする。その場合、「とりあえず祈っておく」では念願は成就しない。

 たいていの人は、過去に「願い事が叶いますように」と神仏に祈った経験があるはずだ。

 しかし、その祈りが「過去に全く効果がなかった」ということが連続して起きれば、「神仏は、自分祈りを叶えてくれないかもしれない」と祈りの力に対する疑念に意識が向く。

 そして、「とりあえず祈っておく」となる。

 だが、もし意識が存在するなら、感受性は人間も神仏も同じではないだろうか。

 私たちが日々の忙しさの中で、さほど付き合いが深くもなく、たいして信頼関係のない友人が訪ねてきたとする。

 そして「できたら、○○をしてほしい」と、手のかかる依頼をしてきたとしよう。あなたは、その懸案を最優先で着手できるだろうか。

 だが、もし旧知で昵懇の友人が必至の形相であなたに「是が非でも、何が何でも頼む!」と平伏して懇願されたら、それを放っておくことは難しいものである。