福島第一原発周辺の地域の農家は、事故以前の農業を取り戻すことができるのか。重要になってくるのが、放射性物質が多く降り注いだ地域の土壌汚染への対処だ。

 前篇では、放射線医学総合研究所の内田滋夫氏に、今回、原発から飛散した放射性物質の種類や特徴、さらに農作物への影響などを聞いた。半減期が約30年と長いセシウム137などは、土壌から農作物に取り込まれる経根吸収がこれからの問題となる。

 では、汚染した土壌を今後、どのように元の状態に戻していけばよいのか。福島の農業復活に科学技術の知見が求められている。

相馬中村藩の農業を救った二宮尊徳

 浜通りと呼ばれる福島県の沿岸地域は、江戸時代、相馬中村藩の領域だった。この土地の農民たちが、1755(宝暦5)年の「奥羽冷害」、1782~1787年にかけての「天明の大飢饉」など、数々の難局に直面してきたのは前篇で紹介したとおりだ。

 天明の飢饉ののち、相馬中村藩の農業を救った人物がいる。かの二宮尊徳だ。当時、すでに「二宮仕法」と呼ばれる営農法を確立し名を馳せていた尊徳は、相馬中村藩の藩士・富田高慶から「わが藩にて、荒廃復興のため二宮仕法をご伝授いただきたい」と再三にわたり懇願を受けた。

 弟子入りまでした高慶の意を感じた尊徳は、ついに相馬中村藩復興への指導を始めた。相馬中村藩で「御仕法」と言われた営農法の取り組みは、10カ年で3期も続く長いものとなった(3期目は戊辰戦争により7年で終了)。

 尊徳が取り入れた手法は、当時の最新理論の数々を駆使したものだった。農民に馬を支給して施肥と耕耘を行わせたり、用水を整えたり、荒れ地を開拓したり、あらゆる手段で相馬中村藩の復興を進めたという。

 時間はかかったが、成果は確実に見られた。第1期で明らかな回復が見られ、第2期では豊作だった年と同じ11万7000俵まで達したという。相馬中村藩の中心地にあたる福島県相馬市には、尊徳像や尊徳の墓、尊徳の木像が安置された地蔵堂などがある。