東日本大震災から1カ月が過ぎた。だが、なお日本は国難と呼ぶべき困難の山積から脱する兆しはない。
所用で4月冒頭に東京に短期間戻り、私がまず体験したのは、日本全体が喪に服したような暗い空気だった。なにしろ歴史上、類例のない規模の地震、津波、そして原発の放射能漏れと、二重三重の大災禍に襲われたのだから、国民が最大限の弔意を表するのは当然だろう。
日本では折からの桜の花が咲く季節に、まず花見の自粛が起きた。東京都内の桜の名所である上野公園や千鳥ヶ淵、靖国神社などでは、夜間に桜の花を照らすライトアップが取り止めとなった。卒業式や入学式、スポーツ行事なども、多くが延期や中止となった。商店街も早々に店を閉め、街路の照明さえも、あるいは電車の車内灯までが落とされた。
私が久しぶりに一時帰国した東京都内は、大震災からすでに3週間が過ぎたにもかかわらず、そんな情景だった。
ニューヨーク・タイムズが指摘した「自粛」という強迫観念
そこで私がすぐに想起したのは、ワシントンで読んだばかりのニューヨーク・タイムズ、3月28日付の東京発の記事だった。同紙の2人の特派員が書いた長文の記事である。見出しは「『自粛』という新たな強迫観念が日本を襲う」となっていた。
この記事は日本のメディアでも広範に紹介されたが、その骨子は以下のようだった。
「津波後の日本は自粛の時代となった。過剰に自己を誇示するバブル時代の日本とは正反対だと言える」
「地震、津波、原発の危機などで住居を失った何十万人の国民への同情から、被災地以外でもほんの少しでも贅沢に見える活動はすべて非難されるようになった」
「日本のあらゆる国民階層は、電灯、エレベーター、暖房からトイレの座椅子の暖房までを停めるようになった。この自粛は電力の領域をはるかに超えて、カラオケ、安売りカメラ店の客案内放送、プロ野球、統一地方選での候補者の訴えにまで及ぶようになった」
この記事はこの日本国民の自粛への理解を示しながらも、日本国民の多くが地震や津波の犠牲者への弔意から日常の活動を縮小するようになったことを伝え、「津波後の日本は自粛という新たな国民的な強迫観念に襲われた」と断じていた。
そしてこの記事は過剰な自粛への懸念を述べていた。最も重要な点として、自粛が日本の経済全体を衰えさせる、というのだった。