私は1965年2月生まれなので、79年3月28日に起きたスリーマイル島原発事故の時は14歳だった。中学3年生になる直前のことだが、ほとんど記憶に残っていないのは、1月半ばに左腕を複雑骨折したことで頭がいっぱいだったからだと思われる。

 私は中学校のサッカー部に所属していて、茅ケ崎市選抜チームのメンバーに選ばれて、大いに張り切っていた。そんな矢先の大怪我で、手術のあとに2週間ほど入院し、退院後もサッカーができない悔しさに歯噛みしていた。

 86年4月26日のチェルノブイリ原発事故の時は21歳で、北海道大学の学生だった。原子炉が崩壊して、放射性物質が世界中にばらまかれたとの報道には、思わず耳を疑った。地理的にも札幌はソ連と近く、いかなることになるのかと心配しながら、私はマメに新聞に目を通した。

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 チェルノブイリ原発事故のあと、北海道内では反原発運動が勢いを増した。

 当時、北海道知事だった横路孝弘氏は社会党に属していたが、「勝手連」と呼ばれる市民運動の力を背景に83年に初当選した。「勝手連」に結集した人々の多くは泊(とまり)原発の稼働に反対しており、社会党も反原発の立場を取っていたことから、横路知事による建設計画中止の決断が期待された。しかし、横路知事は行政の継続を理由に、自民党系の堂垣内尚弘前知事が進めていた道内初の原発計画を今後も推進すると発表した。

 北海道電力をはじめとする原発推進派は、チェルノブイリ原発事故のあとも、日本の原発の安全性を必死に強調した。しかしながら、81年4月には福井県・敦賀原発で放射能漏れ事故が起きていた。その際、以前にあった同様の事故を会社側が秘匿していたことが明らかになり、原発の安全神話には大きな疑問符がついた。

 チェルノブイリ原発事故に関する報道を通して、私は初めて原子力発電の構造を詳しく学び、沸騰させたお湯の蒸気でタービンを回転させるという基本構造は火力発電と同じなのだと知った。つまり、たかだかお湯を沸かすために原子力を使うわけかと、自分の無知も顧みず、手段と目的のギャップの大きさに本気で驚いた。