3月11日午後2時46分、私は埼玉県志木市の自宅で地震に遭遇した。最初はゆるやかだった揺れがなかなか止まず、これはおかしいぞと思った時、家全体をぐらつかせるほどの大揺れが来た。

 テレビをつけて、震源地と震度を確認しようとする間にも揺れは強まり、これはとんでもない大地震だと分かった。

 私は台所でカレーを作っていて、ほぼ出来上がったカレーがこぼれないように、必死に鍋を押さえていた。しかし、この揺れには際限がないらしいと判断すると、短縮授業で帰宅していた中学3年生の長男に「外に逃げるぞ」と呼びかけた。

 カレーは諦め、財布をズボンのポケットに突っ込み、靴をはいて庭に出ると地面と近所の家々が波打つように揺れている。「おとうさん、震源地は仙台の方だって」と遅れて出てきた息子が叫び、私は小学1年生の次男がいる小学校へと走った。

 通りには近所の人々が出ていて、心配そうに肩を寄せ合っている。「震源地は仙台の方だそうです」と私が言うと、「そうなの。あっちはどうなっているのかしら」と話す声を聞きながら、私は300メートルほど先にある小学校に急いだ。

 幸い学校に被害はなく、全校児童の安全を確認してから集団下校をさせるという。それならと自宅までとって返すと、庭で待っていた長男が、「大丈夫。カレーもこぼれてないし、お皿とかも割れてないよ」と知らせてくれた。停電もしなかったので、私は余震に揺られながら固定電話であちこちに連絡をとった。

 しばらくして、今度は長男と一緒に小学校まで行き、下校してきた次男を連れて3人で家に帰った。市内の別の小学校に勤務する妻とは1時間ほどして電話がつながり、お互いの無事が確認できた。

 その日の晩には、4月から北海道新聞で始めるコラムの打ち合わせに記者が来訪することになっていた。しかし、ようやく上野駅から乗ったタクシーが3時間たっても後楽園までしか進まないという。どうしたものかと心配していると、電車が動きだしたそうなので予約していた浜松町のホテルに向かいますと、午後11時過ぎにメールが届き、私はひとまず安心して眠りについた。

 女性記者は翌日の午前10時に志木まで来て、午後2時の新千歳空港行きの便に乗るというので、打ち合わせが済むと早々に帰っていった。

                ★     ★     ★     ★

 地震の直後は、津波に襲われる町の映像がテレビで繰り返し流れたが、やがて原発がまずいという話になった。地震と津波によって電気系統が破壊されて、6基ある原子炉のうち、1号機から4号機までの4基が制御不能に陥ったという。