武田義信が幽閉されていたとされる東光寺(著者撮影)

 混乱を極めた戦国時代。今川義元の敗北によってその争乱はより激しくなる。甲斐の虎と呼ばれその名を成した武田信玄はそのとき何をもくろみ、そしてなぜ滅んだのか? 歴史学者・小和田泰経氏が信玄の子・義信の死からその真相に迫っていく。(JBpress)

桶狭間の戦いがもたらした今川家の混乱

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に大敗を喫した。しかし、この桶狭間の戦いによって、今川氏が滅びたわけではない。今川氏ではすでに家督を義元の子・氏真(うじざね)が継いでおり、権力の移行が進められていた。しかも、桶狭間の戦いに氏真は出陣していない。無傷の氏真が弔い合戦をすれば、体勢を立て直すこともできたのである。

 この点について言えば、今川氏の麾下(きか)に属していた徳川家康(当時は松平元康)が氏真に弔い合戦を勧めたものの、氏真が弔い合戦を拒否したため、家康が今川氏から離反したと説明されることがある。しかし、これは、家康の離反を正当化するために創作された話であろう。そのころの氏真はといえば、動揺する領国を積極的にまとめようとしていたのだ。

 もともと、今川氏の本国と呼べるのは、駿河だけであり、遠江は義元の父・氏親(うじちか)の代に領国に組み込まれたものである。三河や尾張に至っては義元によって併合されたばかりだった。

 駿河はともかく、遠江・三河・尾張の国衆、すなわち在地領主らにとっては、今川氏の勢力に逆らうことができず、服属していたにすぎない。義元の死により、今川氏から離反する国衆が続出したのも、無理のない話である。こうした国衆の離反には、義元の三河・尾張に対する軍事行動で、領内が疲弊していたことも理由にあったことが指摘されている。国衆が離反したのは、なにも氏真が暗愚だったからではない。

 それはともかく、今川領内における混乱を機に、西三河では徳川家康が岡崎城で自立を果たした。実力による三河の平定に乗り出した家康は、今川氏から完全に離反したのである。

 これにより東三河と遠江の国衆は、徳川方と今川方に分かれることになり、争乱はさらに拡大していく。永禄4年(1561)から家康は、西三河にある今川方の支城を攻略しはじめた。そして、永禄9年(1566)までには三河一国の平定を果たしている。

 そうしたころ、駿河への進出を考え始めたのが、甲斐の武田信玄である。