米国のスピリチュアル系出版社から出ている『マルクス・アウレリウス 自省録』(左)と『合気道開祖・植芝盛平言行録』(右)(筆者撮影)

(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 21世紀の現在、古代ギリシアで生まれたストア派哲学が再びリバイバルしている。前回(「現代のストレス社会に古代ローマの人生訓が効く理由」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56416)では、なぜストア派哲学が再びリバイバルしているのかについて、その中心地である米英アングロサクソン圏を中心とした英語圏の状況を踏まえて考えてみた。

 時代が激動期に入るとストア派哲学がリバイバルするのだが、現在のリバイバルが始まったのは1970年代以降のことである。ストア派哲学のリバイバルの背景には、先進国では社会がますます複雑化し、しかもインターネットがストレスと不安を増幅させているという状況がある。あくまでもコントロール可能な自分自身のことに集中し、コントロール不可能な状況に左右されない、何ごとにも動じない強いメンタルをつくるべきだと説いたストア派哲学の人生訓が求められているのはそのためだ。雑念を排し、集中力を高めるメソッドとしての「マインドフルネス」の流行も、おなじ流れのなかにあるといってよい。

 一方、日本の状況はどうかというと、禅仏教によって培われた日本人の態度は、ある意味ではそもそもストア派的であり、比較的なじみ深い内容であるということもできる。そのため、かえってストア派哲学が積極的に導入されてこなかった。新奇なものを好む、日本人の舶来信仰がその理由である。

 だが、日本人にもなじみのある内容であるがゆえに、哲学というと敬遠しがちな人にも、ストア派の哲学は受け取りやすいのではないか。そういう見方も可能だろう。

『自省録』はなぜ日本人にも馴染みやすいのか

 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』は、ストア派哲学の人生訓を伝える重要なアイテムの一つである。

『自省録』は、半世紀以上にわたって長く読み継がれてきた岩波文庫版の神谷美恵子氏による訳をはじめ、日本語でもさまざまな翻訳が出されている。私も『自省録』を編訳して、この4月に『超訳 自省録 よりよく生きる』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)として刊行した。実際に読んだ人は気づいておられると思うが、カタカナの人名や地名などの固有名詞を外してしまえば、最初から日本語で書かれた人生訓のような印象がある。

『自省録』の思想と、日本人の人生哲学や思想との共通性について具体的に考えてみよう。

『自省録』では全編にわたって「いまこの瞬間こそ重要」だという思想が一貫しているが、「いま、ここ」に集中するべきと説く「マインドフルネス」と共通している。そもそもマインドフルネスは、座禅などの仏教の瞑想法から仏教色を払拭して、現代人向けにアレンジしたものだから、『自省録』の思想が日本人の思想に類似しているのは、ある意味では当然だ。

 また、『自省録』には、「すべてが瞬間ごとに変化していること」や、「宇宙ではすべてがつながっていること」が強調されている。これは、仏教語で言い換えれば「無常」と「縁起」となる。その意味では、マルクス・アウレリウスの思想は、ブッダの思想にも通じるものがあるのだ。古代世界で生まれた思想の共通性といえようか。また、この宇宙観は、老子や荘子など道教の老荘思想が説く「タオ」(=道)にも通じるものがある。人間は地球上の生物であるが、同時に宇宙内の存在でもある。