『萬葉集 20巻』より。「初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」の記述がある。(国立国会図書館デジタルコレクション

(矢原徹一:九州大学大学院理学研究院教授)

 新元号「令和」は、万葉集にある「初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮(はい)後の香を薫す」という文章にもとづいて制定されました。この文章は、730(天平2)年に、太宰府の大伴旅人邸に山上憶良らが集まって詠んだ、32首の梅の歌の序文の一部です。

 せっかくこの文章から元号が制定されたのですから、その文意をしっかり理解しておきたいと思います。しかし、新聞紙上での解説には、梅についての言及はあっても、「蘭」について触れたものがないようです。そこで久しぶりに記事を書いて、「蘭」とは何かについて解説してみることにしました。

「蘭」とはフジバカマ

 梅の花が咲く初春には、いわゆる蘭の花は咲きません。東洋蘭の代表であるシュンラン(春蘭)の花は4月、カンラン(寒蘭)の花は10月に咲きます。和書にシュンランの記録が現れるのは江戸時代のことであり、カンランの栽培が盛んになったのは明治以後です。

 万葉集に登場する「蘭」(あららぎ)とは、秋の七草のひとつである藤袴(フジバカマ)だと考えられます。フジバカマの中国名は佩蘭であり、蘭草とも呼ばれます。「蘭」とは、フジバカマや東洋蘭のように、香の良い植物を指す総称なのです。

フジバカマの花。

 万葉集には、「蘭」を題材にした歌がいくつかあります。そのうちのひとつに、女性天皇のひとり、孝謙天皇が詠んだ次の歌があります。

「この里は 継ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草は もみちたりけり」
(この里には年中霜が降りるのだろうか。夏の野原なのに、私が見た草は、もみじのように色づいていた)
 

 この歌には、「天皇大后共に大納言藤原家に幸す日にもみてる澤蘭一株抜き取り内侍佐々貴山君に持たしめ大納言藤原卿と陪従の大夫等とに遣し賜ふ御歌一首」という前書きが記されています。「澤蘭」(サワアララギ)とは、「野生の蘭」という意味であり、フジバカマの近縁種であるヒヨドリバナのことだと考えられます。