英政府、LGBT差別解消を目指した「行動計画」を発表

英ロンドンで行われたLGBTの祭典「ゲイ・プライド・パレード」(2017年7月8日撮影、資料写真)。(c)AFP PHOTO / NIKLAS HALLE'N〔AFPBB News

 筆者が高校時代、数百人いた同級生の何人が男か女か迷っていただろうか、ほとんどいなかったように思える。

 そう考えると、文明や文化の進歩か退化かは判然としないが、LGBTを表舞台に引き出したのは医学の進歩とマスコミなどの報道ではないだろうか。

 杉田水脈衆議院議員が月刊誌『新潮45』8月号(2018年)で書いた「『LGBT』支援の度が過ぎる」が議論になっている。

 論旨を問題視し議論することは大いに結構であるが、どちらかというと、社会の批判に阿るあまりの、批判のための批判になっていないだろうか。ましてや一部週刊誌の個人攻撃は問題を散逸させるだけである。

 先の国会におけるモリ・カケ問題は「生産性がなかった」ということができよう。緊迫する内外情勢に対応した議論が必要な時に、国会も報道もモリ・カケに時間をかけ過ぎたからである。

 杉田議員の論文は、「日本が少子高齢化時代を迎えている状況において」ということが文字には書かれていないが基底にあり、その点からは何よりも「子供を産む」あるいは「子供に寄り添う」ことが要請されている。

 そうした状況背景があるにもかかわらず、報道機関、中でも朝日や毎日新聞などの全国紙が健全な若者が子供を生まない形のLGB(Tについては別の視点が必要であるので、除外することもある)を、いかにも差別されているかのように過剰に取り上げて報道し、社会的な同情を誘うようにするのは問題ではないかという趣旨の提言と読み取れる。

 そうした視点からの「生産性がない」との限定批判であり、LGBである人の人権を無視しているわけではない。

 「生産性」の字句にとらわれ過ぎ、提言の本質を見落としては真剣な議論ができにくくなり、それこそ「日本の存続」という大問題にとって生産的でなくなる。