「イノベーションを行う人たちは小説の主人公のようではない。リスクを求めて飛び出すよりも時間をかけてキャッシュフローを調べる」
(『イノベーションと企業家精神』ピーター・ドラッカー著、上田惇生訳、ダイヤモンド社)
農業を論ずる人たちの周囲に農家はいるのか
近年、日本農業を取り上げるメディアの報道や、日本農業を論ずる人たち、特にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関する議論を見ていて気になることがあります。TPPに賛成、反対を問わず、農家と議論した経験がないのではないかと思える主張が目立つように思えるのです。
30年以上前は、そうではありませんでした。大規模化して大量生産すれば農業問題は解決するかのような単純な論調もありましたが、そうした主張を肯定しつつも、農業に携わる人たちに対する同情的な視線を感じる論も少なくありませんでした。
例えば、大規模化したいが、周囲の兼業農家は兼業といえども熱心なので、土地を貸してくれない。だから規模拡大は難しい・・・、そんな現実を踏まえた主張も多かったのです。
そうした論調がいつから減ってきたのか。個人的には、大前研一氏が20年ほど前に「練馬で大根を作る必要があるのか?」と言った頃からではないかと推定していますが、自信はありません。
ただ、大前氏の論理が通用するようになった背景は想像がつきます。論者の周囲に農家がいなくなったのです。
30年以上前なら、メディア業界にも多くの農村出身者がいました。実家が農家だったり、農家出身者の友人が何人もいたはずです。なぜか? 高度経済成長を支える人材は、主に農村から集められていたからです。メディア業界だけでなく、日本の産業会全体が農業を知る者であふれていたと言ってもいいでしょう。
一方、現在、産業界の人材供給は、主にサラリーマン家庭が担っています。メディア業界でも、農家出身者はごく少数なのではないでしょうか。
また、農家は基本的に理系の職業なので、文系の経済学や経営学といった分野をベースとした議論が苦手です。そのため、論壇に上がってくることがほとんどありません。
メディア業界や論壇で、農家出身者や農家を友人に持つ人が大幅に減ってしまった。そのため、農家の実情にそぐわず、農家の主張を無視した論が幅を利かせるようになったのではないか? 私は、そんな仮説を立ててしまいます。
理屈は正しいけれども使えない戦略
最近、しきりに言われる「農業の6次産業化」などはその典型に思えます。