劉暁波のノーベル平和賞受賞で揺れる中国。12月に行われる授賞式への出席はとてもかないそうにないが、過去にも平和賞受賞者が欠席する授賞式はあった。(=本文敬称略)
死後の受賞者も多いノーベル平和賞
ミャンマーのアウン・サン・スー・チー、そして、国連第2代事務総長ダグ・ハマーショルドである。
難民高等弁務官事務所(UNHCR)や児童基金(UNICEF)など、国連は機関として平和賞を度々受賞しているが、ハマーショルドは国連平和維持活動(PKO)の原点とも言える1956年のスエズ動乱での国際部隊派兵による和平実現などが評価され個人でも選ばれた。
しかし、1961年、コンゴ動乱の調停に向かう飛行機が墜落し死亡、無念の死後受賞となったのである。
1960年「アフリカの年」に独立を果たしたコンゴ民主共和国(当時の国名はコンゴ共和国)では、独立の英雄である初代首相パトリス・ルムンバが、東部カタンガ州の分離独立を目論むモイーズ・チョンベやモブツ・セセ・セコを中心とした抵抗勢力により暗殺されるという『ルムンバの叫び』(2000)でも描かれた泥沼のコンゴ動乱が発生していた。
しかし、ガーナのクワメ・エンクルマ、ギニアのセク・トゥーレといったアフリカ人の連帯を訴える「パンアフリカニズム」の同志であるカリスマ的指導者がルムンバを支持していたものの、左派ととられ西側諸国の受けは芳しくなかった。
その一方で、のちにクーデターで政権奪取したモブツに対しては、米国や旧宗主国ベルギーなどは非難するどころか支援の側に回ったのである。
反共の砦という政治的道具として利用し、銅やコバルトなど豊富な鉱山資源という経済的うまみを得ることで、それから30年あまり続く人権を無視し不正蓄財を繰り返す腐敗にまみれた独裁政治にも目をつぶり続けることにしたのである。
もともと、コンゴ川を探検したヘンリー・モートン・スタンレーのパトロンがベルギー国王だったことから、コンゴは19世紀末にベルギー領となった。
そして、第1次世界大戦でのドイツの壊滅的敗戦により、それまでドイツ領だった東隣のルワンダとブルンジもベルギーのものとなっていた。