中国・上海の夜景。今日もどこかの店で接待が繰り広げられている。(資料写真)

 27年前、私は私費留学生として名古屋へ留学した。中国では公務員だったため、月給は2000円程度だった。渡航費を節約するために、飛行機に乗らず、上海港から神戸港までフェリー「鑑真号」に乗った。

 日本に行くのは初めてだったので、できるだけ中国から身の回りの物を持っていくようにした。しかし、上海港で乗船しようと思ったら、係の者から荷物が「超重」(ウェイトオーバー)だといわれ、300元(約6000円)の追加料金を求められた。私にとって300元は大金だった。

 少し離れた検査台を見ると、私よりも数倍もの量の荷物を持った女性が追加料金を払っていない。その瞬間、南京を出発したときに親友からもらった外国のタバコ「555」を2箱持っているのを思い出した。そこで、さりげなくタバコを検査係に差し出した。すると、彼はそのタバコを受け取って、「行きなさい」と言った。

 当時の中国では、腐敗といえばこの程度のものだった。タバコを取られるのは不愉快だが、仕方がなかった。

若者が志望する就職先の変遷

 1980年代半ばまで、中国の若者にとって就職先の花形は「国営企業」だった。国営企業に就職すると解雇される心配がなく、何よりも福利厚生が整っていたからである。