1993年6月18日、宮沢内閣の不信任案が可決された瞬間を、私はNHKの中継車で中継していた。直前まで自民党が分裂するとは誰も思わなかったが、小沢一郎氏のグループは不信任案に賛成し、議場から大きな拍手が起こった。歴史の歯車が回る音が聞こえたような気がした。
それから21年がたった。きのう開票された総選挙の結果では、小沢氏は生活の党という弱小政党の党首として辛うじて当選したが、話題にもならない。かつて歴史を動かした彼の挫折の軌跡は、そのまま日本の政治の「失われた20年」と重なる。
グランドキャニオンの柵
小沢氏は1991年、海部首相が辞任したとき、後継首相に党内で一致して推されたのを断った。当時49歳で党内の実権を握り、まだ何度でもチャンスはあると思ったのだろう。彼の持論は、自民党の福田派と田中派の流れが二大政党として政権交代を実現する保守二党論だった。
彼は政治改革で主導権をとり、中選挙区制に固執する左派を追い出すつもりだったが、竹下派内の権力闘争に敗れた。しかしこれをきっかけに自民党を離党し、「政治改革」をとなえて細川内閣をつくり、念願の小選挙区制を実現した。
ここまでは小沢氏のギャンブルは大成功で、彼の著書『日本改造計画』は、サッチャー・レーガン以来の「保守革命」を受け継ぐものとしてベストセラーになった。その序文に、彼はグランドキャニオンを訪れたときの印象をこう書いている。
国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。もし日本の観光地がこのような状態で、事故が起きたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、その観光地の管理責任者は、新聞やテレビで轟々たる非難を浴びるだろう。
政府や企業に頼らないで「自己責任」で生きるという彼の政治哲学は、自民党政権の崩壊後の日本のビジョンとして鮮烈な印象を与えた。それはバブルが崩壊して公共事業の財源が尽きた90年代に、英米のあとを受けて日本も小さな政府に舵を切る宣言だった。
自民党が汚れ役を引き受け、社会党がきれいごとを言って責任をとらない55年体制は「出来レース」だと小沢氏は批判し、日本は憲法を改正して「普通の国」になるべきだと主張した。英エコノミスト誌は彼の論文を掲載して「日本にわれわれの理解可能な指導者が初めて登場した」と賞賛した。