ウクライナのキエフまで足を伸ばしてみた(9月17日記)。ここで行われている「戦争」がいったいどういったものなのか、この目で見極めるためである。
最初に記しておきたい。東京で勝手に想像していた「紛争下のウクライナ」というステレオタイプのイメージは、首都キエフにはない。キエフは、表向きは夏の名残を感じさせる暖かな陽射しの中で、紛争の最中と思えないほどの平穏さに戻っている。
この日曜日には、人々は、街の中心のマイダーン(広場)につながる、歩行者天国とされた大きな目抜き通りを闊歩して、夏の終わりを存分に楽しんでいた。この8月にかけて、2013年末以降マイダーンを占拠していた自警団のテントや、革命の残滓がきれいに片付けられて、ようやく夏の終わりを楽しむべく、人々がわれこそと一斉に繰り出したかのようだ。
これも9月5日の分離派との停戦がかろうじて発効したおかげなのだろうか。しかし、街を歩けば歩くほど、ウクライナ人と話をすればするほど、筆者のナイーブな第一印象はもろくも消え去った。なぜなら、普通の日本人には直視することが困難なほどの、ウクライナの直面する現実の過酷さが迫ってきたからだ。
「スラーヴァ・ウクライニ」(ウクライナに栄光あれ)
腐敗したヤヌコビッチ前政権を倒すために、人々が立ち上がったマイダーンでは、今でも政治活動家の代表者と思われる人の演説に酔わされて、多くの人々が口々に「スラーヴァ・ウクライニ(Slava Ukraini)」と叫んでいた。
それは、「ウクライナに栄光あれ」という意味の、第1次世界大戦の際の第1次ウクライナ独立の際に使われ始めたというスローガンだ。とりわけ第2次世界大戦においてドイツ・ナチに蹂躙された際にウクライナ西部において広まったという。もともとは「イエス・キリストに栄光あれ」という典礼から派生した言葉だそうだ。ウクライナの人々にとって、ウクライナが直面する現在の事態が、過去に幾度も訪れた危機と、きっとどこか似通っているからだろう。
そして、ヤヌコビッチ政権の崩壊からすでに半年以上が経とうとする中で、そうしたスローガンさえ繰り返し使われる内に、最近ではやや「クリシェ」(常套句)になってしまったという。ウクライナの革命後の混乱は、本当に駆けぬけるかのごとく、日々装いを新たにしつつある。