ヨーロッパに住む日本人(長期滞在・永住)は、現在およそ19万5000人。こんなにも多数の日本人の中で、日本の伝統芸能の分野に携わる人はそれほど多くない。しかも、その活躍分野といえば、華道、茶道、書道、武道の一部の柔道、空手が普通だが、おそらく誰も開拓していない珍しい分野で活動している男性がいる。

 その分野とは観阿弥・世阿弥の親子役者で有名な「能」と、いくつかの流派から独自に編み出した「剣術」。この2つの古典芸能を身につけ、教え続けているのが、Masato Matsuura(まつうら・まさと)氏だ。

 2つのかけ離れた芸を教えるとはなんとも器用だ。だが、現在はまったく別の芸として考えられているこの2つは、元々は互いに影響し合っていたのだそうだ。

 「実は能のすり足は新陰流の剣から来ており、両者の技術の交換は歴史的な事実です。また、宮本武蔵は五輪書の中で、繰り返し能について言及し、五方の構と名付けた五つの形を能を手本に構成しました」

 人とは違う活動を果敢に続けるMatsuura氏の哲学に迫ってみた。

ヨーロッパで能、剣術、合気を教え始めて早や8年

Masato Matsuura(まつうら・まさと)氏。ヨーロッパで演劇、テレビ番組(イギリスBBCのドキュメンタリー「アイ・サムライ(I, Samurai)」など)、映画にも出演し、役者としての活動もとても充実している(写真: ⓒBrigitte Baudesson

 Matsuura氏の能の舞や剣術を見ていると、瞬時に気持ちがキリッとしてくる(ビデオはこちら)。表面的ではない、卓越した技術の持ち主であることが、映像を通してでさえ伝わってくる。

 パリに住むMatsuura氏はエコール-サユウ(L’école Sayu)と名付けた学校を設立し、パリとブリュッセルで剣術、そして合気(合気道の源流で、〈結び〉をコンセプトとした武道)を教授している。

 同校では数日にわたる「能を学ぶワークショップ」も随時開いている。ヨーロッパ各地に出向いて、さまざまな催しの場で能の舞や剣術も披露している。

 能の舞も剣術も、どこの国で披露しても好評で、特に北欧での反響は目を見張るという。

 「先日ストックホルムで舞ったときの反響は格別でした。能を舞う役者はそこにいて、でもあたかも、そこにいないような感じを与えます。意識がないし動いていないしという自我を消したような役者の存在は、観客たちに神秘的に映るのだと思います」

 理解しにくいと思われる能の舞がヨーロッパ人の心にも響く理由を、Matsuura氏はそう分析する。

 パリの生徒の中には「Masatoの剣術の実演を見て、すごく珍しいと思いました。1本の刀というのは映画などで見たことはあったけれど、2本の刀ですからね。それで興味を持ち始めて、エコール-サユウに通ってみることにしました」という人も何人かいる。

 生徒は芸術家や俳優・女優、また空手などの武術に長けた人が多い。気の流れ、体の動かし方といったことに関心の強い人が自然と集まってくるのだという。全体の3分の1が女性だという。

Matsuura氏の能とクラシック音楽のバッハの曲とを組み合わせた「能-バッハ Noh-Bach」は、2013年にカナダ・ケベックで初披露。世界的に有名なハープシコード奏者 Frédérick Haas 氏との同公演は、2014年9月末にオランダ・ドルトレヒトで開催のバッハフェスティバルで再公演する(写真: Sylvain Laroche)