今から65年前の1945年8月15日正午――。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す・・・」

 ラジオから流れてきた天皇陛下の玉音放送を、松本太助・海軍中尉は青森県・大湊の陸上輸送部隊で聴いていた。途切れ途切れでよく聞き取れず、「陛下が『堪え難きを堪え』とおっしゃるのだから、もっと頑張れということなのか・・・」と首をかしげた。

 だが放送後、上官から「今の放送は終戦の詔書である」と教えられ、松本中尉は「本当に戦争が終わったのか? 自分は助かったのか?」と自問自答を繰り返した。既に兄と弟は戦死していた・・・

軍国主義を叩き込まれ、商船学校から海軍士官に

松本 太助氏(まつもと・たすけ)
1922年8月京都市出身 44年9月神戸高等商船学校卒、海軍少尉 11月空母「海鷹」 45年1月戦艦「長門」 5月駆逐艦「初桜」 6月海軍中尉 復員・石炭輸送業務を経て49年海上保安庁入庁 巡視船「宗谷」首席機関士、同「のじま」機関長、第三管区海上保安本部船舶技術部長などを歴任 82年退職(筆者撮影)

 玉音放送から遡ること23年、1922年8月10日に松本さんは京都市で生まれ、徳島市で少年時代を過ごした。当時の小学校には天皇の御真影(写真)を納めていた奉安殿があり、松本少年も毎日まずお辞儀をして通学していた。

 中学校に進むと、「貴様らは天皇陛下の御為に戦って死ぬために生まれてきたのだ」と軍国主義を徹底的に叩き込まれ、気が付けば海軍兵学校入学が目標になっていた。

 ところが、受験前の身体検査で痔が見つかり、兵学校への道が閉ざされてしまう。そこで松本さんは神戸高等商船学校に入り、そこから海軍士官を目指すことにした。機関科でエンジン工学や英語、ドイツ語などの勉学に励む。日曜日に許された外出で、煙草を一服するのが唯一の楽しみだった。

広島県呉市

 1944年9月、狭き門をくぐり抜け、松本さんの念願は成就した。卒業と同時に念願の海軍少尉として、広島県・呉の海軍工廠で実習に入る。鉄板をハンマーで叩いたり、ヤスリをかけたり・・・

 学徒動員された女学生も作業に励んでおり、松本さんら士官は工廠内で100人ぐらいの女学生から一斉に敬礼を受けたという。「こっちも答礼しなくちゃいかんからね・・・」――。88歳になった松本さんは恥ずかしそうに当時を振り返る。