1980年代、新思考外交を展開したエドアルド・シェワルナゼ(シェヴァルドナゼ)旧ソ連外相・グルジア第2代大統領が7月7日に86歳で亡くなった。グルジアで筆者は何度か間近に接したことはあるが、わずかな供回りを連れて現れた。行動派の一方で、極めて質素・素朴な人柄の印象も受けた。(敬称略)
一方、冷戦終結の立役者であり、外相辞任時の迫力ある演説(「独裁が近づいている」は今でも、あるいはいつの時代にも残る警句として忘れられない言葉だ)、そして幾度とない暗殺未遂事件を切り抜けた迫力のある政治家であったことも事実である。
グルジアを統治した期間は1972年から1984年、1992年から2003年まで、合わせて実に四半世紀に及んだ。
1990年代、筆者は「生まれてからずっとシェワルナゼ(の天下だ)」という若者の愚痴をよく聞いた。こうした不満をうまく拾い上げたのが2003年秋のバラ革命であったと言える。今回は日本ではあまり知られていない、グルジアの視点から見たシェワルナゼという政治家の素顔について考えてみたい。
「田舎」出身の「辣腕」党員
シェワルナゼはグルジア西部グリア地方のママティの出身である。グリアは1905年「世界最初の農民革命」など多くの共産主義者を輩出したことで知られるが、一族の1人もこの農民運動の指導者の1人であったという。
もっとも、グルジアの中では一般にグリア地方の出身者は木訥としたアクセントで揶揄されることが多い。ママティを訪れたこともあるが、山間の寒村そのものであった(ちなみに後述の『希望』は20世紀前半のグルジアの田舎の様子をよく伝えている)。
シェワルナゼは首都トビリシの医科専門学校に進むが、党員としてのキャリアを選択し、後に活動していた西部の中心都市クタイシで教師養成学校(後の教育大学)の学位を取ったのは30歳を過ぎてからであった。
グルジアは独自の王国を(紆余曲折はあれ)1000年にわたって存続させ、グルジア人貴族は旧ロシア帝国でもその特権的地位を長年認められていた。残存する貴族意識とトビリシ国立大学中心の学歴社会という環境においてシェワルナゼは伝統秩序のアウトサイダー的存在であったと言える。
もっともグルジア語でシェヴァルデニ(ないしシャヴァルデニ)はハヤブサを意味するが、その名に違わない鋭い眼光もシェワルナゼの特徴であった。まさしく腕一本でのし上がった共産党エリートの典型とも言えるだろう。
グルジアの地方出身者の共産党員・政治家と言えば、まさにスターリン(鋼鉄の人)の別名で歴史にその名を残したイオセブ・ジュガシュヴィリが真っ先に思い浮かぶ。