「しばらく調子が悪くて病院に来られなかったけど、ようやく良くなったから病院に来たんだぁ」

 こちらの外来ではこのような患者さんをよく拝見します。半分笑い話のようですが、でも診察にいらした時にはほっとしつつ、何だか嬉しくなってしまいます。

 こちらに来てからよく聞かれる質問の1つに、

 「相馬と東京での医療は大分違いますか」

 というものがあります。実は医療としては、相馬でも、東京でも、多少年齢層が変わる以外大きな違いはありません。特に私の専門科であるリウマチ膠原病内科では手術や手技が少ないので、情報化社会に遅れさえしなければそれほど不自由を感じることもありません。

 むしろ大きく異なる点は、病院と社会との関わり方だと思います。

 患者さんの病院の利用の仕方、病院スタッフと社会との関わり方、いずれも東京にいた頃と大きく違うことに驚かされました。

 特に医師にとっては患者さんが、病院にとっては社会が近いので、「病院は社会のインフラであり、高齢者の方々の通り道である」ということを肌で感じられる。東京で勤務していた時には感じたことのなかった経験です。

文化としての医療

 医療、少なくとも日本の病院が扱っている医療というものには、大きく分けて2種類があります。

 1つは急性期疾患や腫瘍など、「人体」と「異物である病」との対立関係が明らかなものです。この場合、医療は病という異物を健康体から切り離す、あるいは退治する、明確な行為として認識できます。

 一方、現代病とも言える成人病やうつ病、認知症のような病や、あるいは「老い」もまた、医療の対象となります。これらの疾患は、はっきりと「健常」と切り離せる境界がありません。

 つまり病のような「絶対悪」「異物」とは言えない。このような普遍性が存在しない以上、老と死に関する世界では多分に文化や価値観の影響を受けることになります。

 明確な宗教を欠く日本という風土においては、人が老や死に対峙するとき、病院や医師の果たす役割が他の国に比べても大きいようです。つまり病院が健常の世界と「老」や「死」をつなぐ移行的な場として認識され、病院の持つ劇場性がいまだに強い。