東日本大震災から3年が経とうとする今、改めて被災地の声を記録にとめよう、という試みが各地でなされています。人々が過去に学ぶためには、記録を残すことは「必要条件」です。しかし記録は学びのための「十分条件」ではありません。
「・・・ある現実的な体験は、体験として固執する限り、どのような普遍性ももたないし、どのような歴史的教訓も含まない。ただ、かれの『個』にとって必然的な意味をもつだけである。この体験の即自性を、一つの対自性に転化できない思想は、ただおれは『戦争は嫌いだ』とか『平和が好きだ』という情念を語っているだけで、どんな力をももちえないものである・・・」
これは第2次世界大戦の体験について吉本隆明が述べた言葉ですが、「戦争」を「災害」に置き換えれば、そのまま東日本大震災の体験に当てはまります。
では東日本大震災の体験が「対自性」を持つために、私たちはどのようなことができるのでしょうか。私はこの手がかりの1つが、他の歴史との比較にあると考えます。
以前、福島のリスクコミュニケーションと狂牛病事件を比較させていただきました*1が、今回は被災地医療と第2次世界大戦の比較をしてみようと思います。
ある学会発表にて
先日、ある病院の災害直後の病院スタッフの勤務状況について、アンケートの結果を拝見させていただく機会がありました。スタッフがどのような時に人員不足と感じたか、ということをお聞きしたものです。
スタッフのストレスや労働環境は、立場によって大きな違いが見られました。例えば普段は定時の勤務をされている事務職の方々などにとっては、震災後の長期にわたる夜間業務は大変なストレスでした。
また、家族構成などでも勤務体制が異なった可能性があります。例えば一人暮らしの方は同居家族のいる方に比べて超過勤務が多かった、などという結果があります。
一方、ご家庭を持たれている方は、保育園や介護・療養のための施設が閉園になってしまったことによる負担や、家族の食料調達ができなかった、などの問題もあったようです。今後の大規模災害へ向け、このような不安や不公平感を少しでも減らさなくてはいけない、と学ぶところの多いアンケートでした。
この結果を学会で発表をさせていただいたのですが、その時に受けた質問に驚きました。
「この病院は沿岸部でもないし、電気も水道も通っていたんですよね? そんな病院でスタッフが大変なんて、甘いんじゃないでしょうか」
このご質問をされた方はご自身も医療従事者で、阪神・淡路大震災でご自身の勤務された病院が壊滅状態となった経験があるそうです。恐らくこの方は苦難を気力で乗り切り、ご家族も不平を言わず耐えられた、その体験をもってこのようにおっしゃったのでしょう。