経営力がまぶしい日本の市町村50選(21)

 人口約12万人をコンスタントに維持している静岡県掛川市。今では「健康医療日本一・環境日本一・市民活動日本一」を市のスローガンにするほど活気ある町だが、三十数年前までは貧乏自治体で「落ちこぼれの掛川」と言われていた。

 当時は新幹線の駅も高速のインターチェンジもない単なる通過点だったため、産業や人口の空洞化が進んでいた。

「落ちこぼれの掛川」に30億円もの市民募金が集まった理由

 しかしながら、一人の市長の登場で町が一変することになる。財政力指数が当時は0.6程度だったのが、平成21年度(2009年)には1.03まで上がり、普通交付税が不要の自治体にまで財政が健全化されたのである。

 掛川市の転機は、1977年に榛村純一氏が市長になった頃にさかのぼる。結局、榛村氏は7期28年間にわたり市長を務めることになるが、初年度に250回も市民対話集会を開催して市民の声をつぶさに拾った。

再建された掛川城の天守(ウィキペディアより)

 また、1979年には全国で初めて「生涯学習都市宣言」を謳い、その4年後には全国初の「生涯学習センター」を開館した。

 お金のないときに、ハコモノをつくるなんて尋常ではないが、それが逆に市の本気感を伝えることとなり、市民がセンターを活用し真剣に語り合うことにつながった。

 そうして市民の意識を地道に高めた結果、1988年の新幹線掛川駅の誘致・開業にあたって30億円もの市民募金が集まることになる。

 さらに、日本100名城に選定された掛川城の、1994年に再建された日本初の木造
復元天守の費用5億円も寄附によるものである。現在は掛川駅木造駅舎保存にも市民募金が募られているが、2013年9月20日時点で約6400万円が集まっている。

 さらに、この生涯学習への取り組みは活発になり、1991年には「掛川市生涯学習まちづくり土地条例」を施行。まちの全てのステークホルダー(地権者、住民・自治区、開発者誘致企業、掛川市)の同意があって初めて土地開発が許可されるという、これまた全国初の取り組みがなされる。

 そしてその2年後には東名高速道路掛川インターチェンジの供用が開始され、NECやヤマハ、資生堂、松下電器(現パナソニック)、京セラなどの誘致につながった。

 このようなシチズンシップの萌芽は、報徳思想の影響もあると思われる。

 掛川市には大日本報徳社という二宮尊徳の一番弟子だった岡田左平治が設立した、報徳思想の普及活動を行う公益社団法人があるが、お膝元の掛川市ではこの報徳思想に関するシンポジウムや勉強会などがさかんである。

財政力指数(3カ年の平均値)= 基準財政収入額 ÷ 基準財政需要額
基準財政収入額…自治体の標準的な収入である地方税収入の75% などを対象とする。
基準財政需要額…人口や面積などにより決められる標準的な行政を行うのに必要と想定される額。