前回・前々回に続いて、4月下旬に福島県飯舘村を再訪した報告をする。福島第一原発事故による放射能で村が汚染され、全村民6700人近くが避難した高原の村である。同浪江町、川俣町、南相馬市と並んで、2011年3月15日に放射能雲(プルーム)が通り避難を余儀なくされた地域である。事故直後から取材に何度も通ってきた。その美しい春夏秋冬の自然を写真に記録し『福島飯舘村の四季』(双葉社)として出版した。

 2011年4月から、村民は居住を禁止された。ものを取りに帰ったりの帰宅は自由にできるが「住む」ことはできなくなった。「住んでいない」ことが前提なので、郵便や宅配便、ガソリン、食料品流通といった生活の基盤も停止した。

 原発から半径20キロ以内の地域は、長い間住民の立ち入りすら禁止されていた。虫食いのように解除されたり、あれやこれやと国が呼び名を変えたので、ややこしくなっているが、双葉町や大熊町など原発直近の町は、今も基本的には状況は同じである。それに比べると、飯舘村では自分の家に許可なしで出入りはできる。国の法律が原発から20キロを越える汚染・避難を想定しないままになっていることから生じた現象である。

 飯舘村が20キロ圏内と違うのは次のような点である。

(1)「飛び地」のようにそのエリアから離れている。

(2)にもかかわらず「全村民が避難」を命じられるほど汚染の範囲・濃度がひどかった。

(3)原発が立地されることで地元自治体が受ける固定資産税や国からの電源開発促進交付金といった財政的な利益がなかった(福島県予算に組み入れられ分配された県経由の交付金はある)のに原発事故の被害だけを受けた。

(4)2012年7月になって長泥地区に住民の立ち入りを封鎖するバリケードが道路に設けられた、などである。

 「長泥」地区前のバリケードまで行った時の話だ。まず、長泥地区の西隣の「比曽」地区に車で入った。長泥と同じように村の南端にある比曽地区は、プルームの真下に入ったことは長泥と同じである。汚染も同じくらいひどい。被害は変わらない。しかし国は「行政区」で機械的に2つの地域をぶった切った。

 空の青い、いい天気だった。そろそろと比曽の中心部に入った。あちこちに山桜の薄墨色が見える。

比曽公民館前の火の見やぐら(筆者撮影、以下同)
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