1989年の中ソ和解から3年も経たぬ間に、両国の運命を大きく変える出来事が2つ起こった。1つは1991年末のソ連の崩壊、そしていま1つは、それからわずか1カ月後の1992年初めに鄧小平が行った「南巡講話」である。

 ソ連の崩壊は、無理に無理を重ねた社会主義経済の行き着いた結末であった。それは、体制を維持しながら漸進的な改革で治癒するには、問題の根深さでも、国民の自由を求める意識の強さでも、もはや限界を超えてしまって手遅れだった。

ソ連の失敗から学んだ鄧小平

1988年、ニューヨークを訪問したゴルバチョフ(右)。左はブッシュ、レーガン(ウィキペディアより)。

 ある高級官僚は、ミハイル・ゴルバチョフ政権末期のソ連の経済破綻を嘆いて書いた――石鹸も店で手に入らない。あの苦しい第2次世界大戦の最中でも石鹸はあったのに。一体どうなっているのか。

 後進国・ロシアがソ連に生まれ変わることで、ヨーロッパも米国も追い抜いた。皆がそう信じていたかった。しかし、ソ連が70年以上も続いた後ですら、それは見果てぬ夢でしかない。そして、そのことをもう皆が知っていた。

 だが、無理な体制の当然の結果であったなら、むしろレオニード・ブレジネフ時代の停滞から30年近くもよくそれが持ち堪えたものだと思う。

 体制を何とか支えて、ソ連が強大であると外部の観察者やソ連の指導者自身の目を眩ませたのは、結局はロシアに賦与された本源的な豊かさだったのだろう。

 社会主義計画経済との離別、それに15のソ連を構成する各共和国の独立という大きな体制と地政学上の変化は、恐らくどの予想をも下回る最小限の摩擦と人的犠牲で終わった。ロシア人がもっと誇ってよいこの点を可能にしたのも、やはりロシアの豊かさであったのかもしれない。

 ソ連邦解体の事実上の決断は、1991年12月にベラルーシのベロヴェーシに集まった当時のロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳3人によって行われた。それから間もなくして、最初で最後のソ連邦大統領であったゴルバチョフは辞任する。

 遠く離れた北京で鄧小平はその知らせを聞いた。そして、公職をすべて退いた身でありながら、人生最後の勝負に出る決心をする――中国の国家体制を維持するには、改革開放経済をさらに進めるしかない。それしかない。

 米寿になんなんとするその時から遡ること14年前の1978年、彼は国家の舵取りの任に就く。2度失脚を経た後の3度目の政権への復帰だった。

 文化大革命や四人組追放で政治や経済が混乱の極みに達し、海図や羅針盤を失った船にも等しい国家だった。その立て直しに、すでに74歳だった彼は、当時の中国が出せる最後の切り札だった。