ロシア帝国の東進は止まらなかった。清から150万平方キロの版図を奪ってもまだ足りない。その清が日本との戦で1895年に敗れた後は、清領の満州と清が宗主国である朝鮮への動きを、ロシアはさらに大胆なほど強めていく。
ドイツ・フランスを誘い日本へ圧力をかけることで遼東半島を返還させ(三国干渉)、これがうまくいくと、他の列強の租借地拡大に便乗して(ここでも人真似に余念がない)自分がその遼東半島の租借権を手に入れる。
ロシアと秘密協定を結んだ李鴻章
1896年に清の欽差(特命担当)大臣であった李鴻章は、ロシアとの間に「露清防敵相互援助条約」を秘密協定として締結した。これは対日攻守同盟で、ロシアに満州での権益を認めるものだった。
彼はその1年前に日清戦争の敗戦処理のため、気が重くなる下関(馬関)条約の締結交渉に出かけ、そこで日本人の暴漢から襲撃まで受けている。だから、およそ親日派にはなれなかっただろう。それとは逆に、なぜかロシアには親近感を持っていたようだ。
しかし、今では中国の学者から、ロシアを信じた李鴻章は愚かだったと批判されている。その後に起こったことは、ロシアによる「弱いやつからは限りなく奪え」の動きとしか見えないからである。
なぜ清は「弱いやつ」になってしまったのだろうか。
アヘン戦争の始末書である英国との南京条約は、その追加条項で治外法権と関税自主権放棄を清に強いた。列強が押し付ける不平等条約である。日本もその解消には苦労した。
そのような不利な条件を清が呑んでしまったのは、条約の意味するところを理解していなかったから、というのも1つの解答になる。間違いではない。だが、それを含めて広く考えると、清の側の華夷思想が裏目に出てしまった結果と表現した方が分かりやすい。
アヘン戦争に敗れても、宮廷の中ではこれがかすり傷程度にしか受けとめられていなかったのだろう。彼らの反応は――蛮族が何やかやとうるさく言ってくるなら、とりあえず適当に条約でも何でも結んでおき、やがて国内の問題を片づけたらまた自分の思い通りにそれを変えればよい、だった。
平たく言えば、勝手に思わせておけ、どうせ強いのはこっちなんだから、である。
相手を軽く見るから、不平等条約を自己の側に押し付けられたという認識も当然ながら薄かった。それに、蛮族との条約は相手の従属とこちらの恩恵の組み合わせであるから、必要に応じていくらでも自分の方からその条約を変更できる――はずだった。
さらに、徹底的に見下した相手に対しては、中国人同士なら必ず登場する、それこそ世界に冠たる権謀術数や人としての信義、といったものの出る幕がない。