北方領土問題で「4島一括返還」という主張がよく聞かれる。確かにこれが政府方針であった時期がある。それは、北方領土問題を解決する意思が実際にはなかった冷戦時代である。

 しかし、ソ連が崩壊し、冷戦が終結したあと、この政府方針は変更された。外務省発行の「われらの北方領土」(2010年版)でも次のように記されている。

 「交渉に当たり、我が国は、ロシア側が1991年後半以降示してきた新たなアプローチを踏まえ、北方四島に居住するロシア国民の人権、利益及び希望は返還後も十分に尊重していくこと、また、四島の日本への帰属が確認されれば、実際の返還の時期、態様及び条件については柔軟に対応する考えであることを明示しつつ、柔軟かつ理性的な対応をとりました」

 これは、92年に予定されていたエリツィン大統領の訪日に向けた日ロ双方の準備作業についての記述である。なお実際の訪日は93年にずれ込んだ。

 ここで言う「ロシア側の新たなアプローチ」というのは、91年9月に、ロシアのハズブラートフ最高会議議長代行が海部俊樹首相宛てのエリツィン大統領の親書を携えて来日した際、同議長代行から「第2次世界大戦における戦勝国、敗戦国の区別を放棄すること、領土問題を『法と正義』に基づいて解決すること、問題の解決を先延ばしにしないこと等の考え方が表明」(「われらの北方領土」より)されたことである。

 相手がある領土交渉で、冷戦時代の「4島一括返還」論をお題目のように唱えるのではなく、ロシア側の対応も見極めつつ、柔軟で現実的な対応によって、一歩も進んでいなかった領土問題を前進させようということであった。

確かに空想的だった「4島一括返還」論

 日本政府が「4島一括返還」に近い要求を打ち出したのは、1956年の「日ソ共同宣言」をまとめる経過の中で、国後、択捉、歯舞、色丹の返還をソ連に求めた時だけであったろう。その結果が、平和条約締結後に歯舞、色丹は「引き渡す」という日ソ共同宣言であった。

 その後、東西冷戦の下でソ連は「領土問題は解決済み」という立場を取ったため、まともな領土返還交渉を行う余地すらなくなっていた。この時代に、北方領土問題を解決する意図もなく、国内での反ソ機運を盛り上げるために持ち出されてきたのが、「4島一括返還」論である。