カーペットの歴史は約3000年と言われている。ペルシャ(現在のイラン)のあたりで「パイル織(生地の垂直方向に毛足が伸びている織り方)による厚手の敷物」が生産され始めたのが最初である。砂漠(といってもイランあたりは土漠だが)で気持ちよく過ごすため、あるいは宮殿の大理石の上で生活して快適なようにということなのだろう。

 このペルシャの手作りのカーペット(緞通=だんつう)技法がシルクロードを経てインドから中国へ、あるいは十字軍の遠征などによりヨーロッパ諸国にも伝わった。

 手作りだったカーペットを機械で作るようになったのは18世紀のヨーロッパである。産業革命の進展と共に近代的な機械織りカーペットが生み出され、富裕層に広がっていった。

 現在、最も普及している量産型のタフテッドカーペットは、1895年にアメリカのキャサリン・エバンスという人が薄い平織綿布の裏から太い甘撚りの綿糸をフックで刺してパイルを形成するという方法で作ったのが起源である。これで著しく安価な生産が可能になり、1950年代に化学繊維の発展とも相まって、カーペットの大衆化を実現した。

 我が国には江戸・元禄年間に九州の鍋島藩にもたらされたのが最初である。その後、明治になってから、赤穂、堺、山形等の各地に広がった。緞通の名は中国語のタンツに由来していると言われている。

東北の寒村を救うためカーペット技術を導入

 日本のじゅうたん生産の拠点の1つである山形県・山辺町は、かつて「山辺木綿」で知られる染織の町だった。江戸後期に始まって明治期には地場産業に育っていった。

 ところが昭和初期(1930年代初頭)、冷害凶作による大不況となり、子女が身売りを余儀なくされるほど深刻な事態になった。この状況を見かねていたオリエンタルカーペット創業者の渡辺順之助に、「中国には高級なじゅうたんを作る産業がある。日本でも景気に左右されない安定産業になるかもしれないので、試してみてはどうか」という話が持ちかけられた。

 当時は「じゅうたん」という言葉すら知られていない時代だ。しかも日中関係が深刻化していた時期でもあり、渡辺も思案にくれたが、「この地には、どうしても女性が働く場所が必要だ」と考え、1934(昭和9)年に「ニッポン絨毯製造所」を創設。翌年5月には、技術習得のために張春圃を団長とする7名の中国人技術者を迎え入れた。

 中国人技術者に対しては衣食住に最善の配慮を払い、「先生」と呼んで教えを乞うたという。

 伝習はかなり難渋したらしい。言葉が通じないため、指示は耳や髪を引っ張ったという話も伝わっている。1936年には、さらなる充実を目指し「絨毯技術講習所」と社名変更、新工場を建てて新たな伝習生も迎えた。