4 カトリックが結ぶ愛=400年経て結実するもの

 「コスモポリタン(世界市民)そのものの移民女性の生涯を書いてみたいと思いました」。ブラジル日本移民史料館9階で9月15日夜に行なわれたポ語人物評伝『Cecilia Hirata』(editora Terceiro Nome刊、10年)の日系社会向け刊行記念パーティで、著者の優美(ゆうみ)・ガルシア・ドス・サントスさん(42)はそう執筆動機を語った。

 セシリアはカトリック洗礼名、本名は美津子(88、大阪)だ。平田ジョアン進連邦下議(1914―1974)の妻だと知っている人は多いが、その世界市民的な生涯は意外と知られていない。

 父は外交官という裕福な家庭に生まれ、大戦前に米国、マニラ、北京、香港などで当時珍しい英語教育を受け、戦争中は大東亜大臣秘書のほか外国人向け英語放送(現NHK)のアナウンサーとして有名な“東京ローズ”と働き、平田進と結婚して伯国へ移住、子供を仏ソルボンヌ大学教授などの優秀な文化人に育てた。

 夫とは別な意味で波乱万丈なその生涯を、刊行を機にふり返ってみた。

1959年、聖市で7人の子供達と記念撮影(平田家所蔵)

 福岡県大刀洗町で、長女エレナと長男久幸(ひさゆき)の二子が生まれた。戦後、外務省から父ら3人に戻らないかと声がかかったが、父の兄は戦争中に亡くなり、父の弟だけが復帰し、オランダ大使を最後に退任した。

 1951年、まず平田がブラジルに戻った。「先に自分が帰って、仕事を見つける。それから君達を呼び寄せるから待っていて」と言い残し、出発した。いつから平田が政治家を志したのかは分からない。美津子は「日本にいる間に志をもったのかも知れません」という。

 51年9月にサンフランシスコで対日講和条約を調印、12月には戦後初の在聖総領事、黒石四郎がようやく着任していた。すぐに総領事館の顧問弁護士の仕事を見つけた平田は、約束どおり翌52年に妻と日本で生まれた子供を呼び寄せた。

 「オランダ船で100日もかかったんですよ。費用は一人13万円もしました」。美津子と子供2人にとっては初めてのブラジルであるサントス港へ、1952年3月25日に到着した。

 平田は1941年USP法学部卒だが、1年先輩には同じカトリック信徒で、後に日系初の代議士となる田村幸重、同級生では後に軍事政権中にサンパウロ州知事となるアブレウ・ソドレと特に仲がよく、後に下院議長を3回も務めるPMDBの重鎮ウリッセス・ギマランエスも机を並べた。そんな中で学生生活を送り、影響を受けていた。

 田村幸重が1948年に聖市議に繰り上げ当選し、51年に聖州議、58年に連邦下議になっていくのを目の当たりにした。在聖総領事館顧問弁護士の傍ら、自らも政治家を志し、1958年に聖州議に当選、田村の後を追うように62年には連邦下議となった。

 日伯国会議員連盟の創立者であり、1955年にサンパウロ日本文化協会(現ブラジル日本文化福祉協会)設立時には、山本喜誉司初代会長に二世の立場から補佐する片腕として、常任理事、副会長、日伯文化連盟会長などを歴任していく。

 この選挙運動で大きな支えとなったのは、最盛時には数千人もの会員を誇ったといわれる、今村出身者の集いである「保和会」(ほうわかい)だ。

 長崎県浦上で隠れキリシタンの家に生まれた本田保(たもつ)は13歳の時、昭和初期のキリスト教徒弾圧「長崎四番崩れ」でとらえられ、四国の土佐に流刑された。そこを脱出し、神戸で宣教師の庇護を受けて神学校に通うようになった。

 1873年にようやく、明治政府によってキリスト教禁制が解かれた。1887(明治20)年に大浦天主堂の司祭に、1896(明治29)年には今村教会主任司祭になった。

 弾圧を体験した本田が「外地なら気兼ねなくカトリック信仰ができる」と海外移住を勧めた結果、今村からはブラジル、ペルー、メキシコなどの新天地に向かう移民家族が多く生まれた。その一つが平田家だった。

 聖市には、今村出身者を中心とした「保和会」が組織された。本田保神父の「保」と、当時本田神父を助けていた伝道師の青木和平の「和」をとって「保和会」という。そのリーダーが平田進だった。

 つまり、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着してから約400年後に、地球の反対側で日本の隠れキリシタンが中心となってカトリック大国ブラジルで日系政治家を押し上げたわけだ。移民という存在がいかにグローバルなものかを象徴する人物だ。