夏目漱石(1867~1916)は幼少時に2度養子に出されている。

 漱石は父・夏目直克が50歳、母・千枝が41歳の時に生まれた5人兄弟の末子で、金之助と名づけられた。

 夏目家は江戸奉行支配下の町方名主だったが、すでに家運は傾きかけており、年の離れた末子の誕生は歓迎されなかった。そのため、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋に里子に出された。しかし、がらくたと一緒に小さなざるに入れられて夜店に晒されているのを見つけた姉が不憫に思い、家に連れ帰ったというのは、文豪にまつわる有名なエピソードである。

 ところが父・直克は娘の行いを喜ばず、翌年金之助を再び養子に出してしまう。しかも養父となった塩原昌之助は身持ちが悪く、たびたび女性問題を起こしたあげくに妻と離婚したため、金之助は9歳の時に塩原籍のまま夏目家に戻った。

 金之助は成績優秀だったため、養父としては将来の出世が期待される子供を手放すのが惜しかったのだろう。塩原昌之助が夏目家への復籍に同意したのは実に漱石が21歳の時だった。

 しかも、漱石の父にそれまでの養育料を要求しただけでなく、漱石に対しても 「互いに不実不人情に相成らざる様致度存候也」という一札を入れることを求めた。そして後年、漱石はこの時の一札によって、養父から金を無心されることになる。

 こうした複雑な生い立ちや養父母との間柄については、漱石自身が自伝的小説『道草』の中で詳しく描いている。

 こじれにこじれた養子縁組がいかに漱石を悩ませたかは、「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起こったことは何事までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」という『道草』の主人公・健三が最後に洩らす台詞に余す所なく言い表されている。

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 「養子」という制度には、漱石が巻き込まれたような厄介事は付き物だったようであり、日本と外国とにかかわらず多くの人たちを悩ませてきた。

 菊田昇医師は、実際に赤ちゃんの斡旋をしてきた経験から、次のように述べている。

 <子を望んでいる夫婦が “実子” として赤ちゃんをもらいたいと願うのは、子供が将来、戸籍によって出生の秘密を知り、また、世間から “もらい子” “ててなし子” とさげすまれて、世を呪い転落することから守ってやりたいこと、また、「養子縁組」では「えたいの知れない親」が「産みの親」として一生まつわりつき、返還要求や、ゆすり、いやがらせなどの紛争がいつ起こるかわからないという恐れがあることなどが主なものである。>