ちょっと前に「KY」という言葉が流行した。「空気が読めない」あるいは「空気を読め」という意味だが、この場合の空気は「場の雰囲気」というぐらいの意味だろう。このような同調圧力の強い日本人の特徴を指摘したのは、山本七平の『「空気」の研究』である。
太平洋戦争末期の1945年4月、戦艦大和は生還の見込みのない沖縄への「特攻出撃」を行い、九州近海で撃沈され、搭乗していた約3000名の将兵のうち2740名が死亡した。この時、特攻出撃を命じた軍令部次長の小沢治三郎中将は、戦後インタビューに答えて、「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」と述べた。
日本的な「空気」で決まった公害対策
このように目標の合理性を考えないで場の「空気」で決めるのが、日本的な意思決定の特徴だ。山本は、同様の「空気」を1970年代の公害反対運動に見た。
1967年に公害基本法ができた時、その目的に「経済の健全な発展との調和を図る」という規定があったのを野党やマスコミが「公害の防止に経済との調和を考えるのはおかしい」と攻撃したため、この条文は70年に削除された。
これによって「公害を減らすにはどんなコストをかけてもよい」という空気が生まれ、有害物質を微量でも含む商品はすべて禁止された。カドミウムがイタイイタイ病の原因だったかどうかは科学的には決着がついていないが、その除染には約1600ヘクタールで8000億円が投じられた。ほとんど健康に影響のないダイオキシンを除去するために、数兆円かけて全国のすべてのゴミ焼却炉が取り壊されて改造された。
公害は「絶対悪」であり、環境保護は「絶対善」なので、コストが合理的かどうかは考えないで、リスクがゼロになるまで税金を投入するのだ。その費用対効果を疑う者は、戦争中と同じように不道徳な「非国民」として指弾を浴びる。
「年1ミリSvの除染」には天文学的なコストがかかる
同じような「空気」がまた醸成されつつある。環境省は福島第一原発事故の被災地について、「追加被曝線量を年1ミリSv(シーベルト)にする」という目標を立てて除染を行う方針である。当初は「年5ミリSv以上」と決めたが、地元の自治体が反発したため、目標を1ミリSvに下げたのだ。